梁塵秘抄(りようじんひしょう)と熊野

 「梁塵秘抄」は平安末期の歌謡を集めたもので、文学史上に重要な地位を集めるものである。

 (中略)

 巻二に熊野を詠んだものが9首も収められている。

 神分三十六首の内

 熊野へ参るには、紀路と伊勢路とどれ近し、どれ遠し、廣大慈悲のみちなれば、紀路と伊勢路も遠からず

 熊野へ参るには、何か苦しき修行者よ、安松姫松五葉松、千里の浜

 熊野へ参らむと思へども、徒歩より参れば道遠し、すぐて山きびし、馬にて参れば苦行ならず、空より参らむ羽たべ若王子

 熊野の権現は、名草の浜にこそ降りたまへ、若の浦にましませば、年はゆけども若王子

 僧哥十三首の内

 聖の住所はどこどこぞ、箕面よ勝尾よ、播磨なる書寫の山、出雲の鰐淵や日の御崎、南は熊野の那智とかや

 聖の住所はどこどこぞ、大峰葛城石の槌、勝尾よ、播磨なる書寫の山、南は熊野の那智新宮

 雑八十六首の内

 熊野の権現は、名草の浜にでおりたまふ、海人の小舟に乗りたまひ、慈悲の袖をぞ垂れたまふ

 神社哥六十九首の内

 紀の国や牟婁の郡におはします、熊野両所を結ぶはやたま

 熊野川でゝ切目の山の梛の葉レ、よろづの人のうはきなりけり

 以上の歌謡の注釈めいたことはここには遠慮するが、神分の四首のうち、熊野に参るには紀路と(和歌山付近から南へ)と伊勢路(伊勢廻り)の二路あるが、どちらが近くどちらが遠いか、廣大慈悲の神に詣でるのだから、どちらも遠くはないと、当時の交通不便による路堵の困難と熊野信仰の旺盛さを唄っていたり、徒歩で行けば道遠く山険しと嘆き、空より参るとおどけている。名草の浜は和歌浦付近という。安松姫松五葉松の意味は私には今だ分らない。

 僧哥の聖ー僧の住む所として北播の箕面、河内の勝尾、播磨の書寫山、出雲の鰐淵、日の御崎、大和の大峰、葛城、紀州の熊野即ち那智新宮を列挙している。当時の特長だった多数の聖と言われた徒はこれらの寺々に群れ集まっていたのであろう。

 雑の謡の熊野の神が名草の浜にあり給ふいうこと、何か一段の譚があろうと思うが、今はその検索にはふれ得ない。熊野二首の牟婁のはもと南紀田邊付近のみをいい平安の末には熊野地方をも含んだもので、結ぶはやたまは新宮の熊野速玉神社はむすぶの宮ともいうからで、熊野両所はここでは本宮那智の両社を指すかと思われる。切目の山は今の紀州日高郡切目村の王子社のことで、熊野参詣の人々は往路にここの梛の葉をとり持ちて、熊野の山道の虫よけの咒としたのだった。

 (後文略)

 注、「梁塵秘抄」は平安末期の現在社会にいいかえると「流行歌」を後白河上皇が分類・集成した歌謡集である。

 注、紀州日高郡切目村は現日高郡印南町切目

 参考文献、椿の葉巻 著者雑賀貞次郎 昭和13年5月19日発行