役行者は大和葛木上郡の生まれといわれ、役小角(えんのおづめ)・役優婆塞(えんのうばそく)とも呼ばれる。修験道の開祖と仰がれ、後の光格天皇から神変大菩薩の号を賜った。歴史的には「続日本紀」の文武三年五月二十四日の条や「日本霊異紀」の説話などにわずかに見られるのみで、鬼神を使うほどの呪術者であったが、讒訴されて伊豆に流されたと伝えられる。しかしながら後世に与えた影響は大きく、日本全国にある霊山と呼ばれるほとんどの山々の開祖者に比定されている。
大辺路は、熊野参詣道として、
白薙元(650)年修験者和林が開いたとされています。
657年 有間皇子
658年 斉明天皇
690年 持統天皇
701年 文武 、持統天皇
ーー蟻の熊野ーーー
前文略。
家長日記は鎌倉期のものであるがそのころ既に蟻のもの参りといふ語のありしことが知られる。文献としてはそれらが最も古いのではあるまいか。
尚ほ「しらべおくべし」としたい。
昭和11年4月13日 雑賀貞次郎著
参考文献 南紀雑考 雑賀貞次郎著 昭和11年6月1日発行
ーーヘヂーーー
前文略。
案ずるに、ヘヂをヘチと訛った上に、方言のヘチの意をも混じたのであるまいか。即ち方言ではものの端、縁、側のことをヘチと云う、田圃のヘチ(畦)、鍋のヘチ(縁)、火鉢のヘチ(側)など云う。海沿いの熊野の道は海の縁(ヘチ)であり、里程も長いので、大きな経路、大きな縁で大辺路とよばれ、一方は山間をゆくので、中の経路、中の側で中辺路となったのではあるまいか。なお考えるべしとしておく。
参考文献 昭和11年4月14日 雑賀貞次郎著
参考文献 南紀雑考 雑賀貞次郎著 昭和11年6月1日発行
(注)、旧かな使いから現代文に修正した。
ーー記録ーーー
過去の記録で大辺路の記録は次のとうりです。
熊野案内記 寺内安林 天和2(1682)年
紀州採薬志 小野蘭山 享和2(1802)年3月
大田南畝の半日閑話に書工汝圭が文化12(1815)年5月玄厚に宛て
大和、紀州に遊びたる消息を報じた書簡をを収む。
湯峰温泉の日記 長沢伴雄 天保11年(1840)1月
熊野日記 熊代繁里 安政6年(1859)3月、4月
南遊志 斉藤拙堂 万延元年(1860) 南紀白浜にも立ち寄っています。
日本九峰修行日記 野田成亮 年代は調査中
上記は、私の持っている資料を年代順に列記した。
ーー大辺路の特徴ーーー
大辺路は熊野古道の一つで、だいたい、田辺
から海岸線近くを通って、那智の浜ノ宮
(道標の写真入れる)
に至る92キロほどの道を示す。田辺から山間部を通る中辺路よりも早く開かれたという説があるが、上皇や貴族の熊野参詣が盛んであった平安時代後期から鎌倉時代へかけては、ことごとく中辺路を往復していて、大辺路を通ったことを示す記録は見当たらない。
大辺路という名称は、元和9年(1623)に京都の高僧安楽庵策伝がまとめた「醍睡笑」という書物に出ていて、当時すでに難路として知られていたようである。中辺路よりも距離が長い上、富田坂・仏坂・馬転坂・長井坂といったかなり険しい峠道がおり、四十八坂などと言われて、小坂もつづいていた。
それでも、江戸時代の初期には、大辺路にも伝馬所が設けられ、一里塚が築かれた。熊野参詣者の帰り道として利用されることがあり、いまも「わかやまみち」とか「若山道」とかした道標が見られるのは、それを物語るものである。時には、紀州藩主や三宝院門主(当山派の修験者の統領)が、200人前後の一行を引き連れて通行することがあった。また、文人や画家が、海岸美を観賞しながら、田辺の方から那智をめざして通ったりした。
ただ、中辺路のように四国めぐりをする集団が通ることはなく、一般に大辺路を旅する人が少なかった。そのために、途中に宿屋や茶屋がなく、通行に不便であったし、その一方、途中で海路を利用することが珍しくなかった。
明治以降新しい道路が開設されたりして、今では古道の消えたところが少なくない。しかし、峠道などにはかなり濃厚に古い面影が残っているし、全般的に、太平洋や枯木灘などのすぐれた景観を目にすることができる。それが大辺路の特色であり、魅力だといえよう。
各所説明は省略した。
@富田坂 A仏坂 B長井坂 C串本〜古座 D浦上〜那智 |