|
|
碑石題字 薬師寺管長 高田 好胤 |
時代考証、有間皇子の行列想像図 |
![]() |
文献 有間皇子は第三十六代孝徳天皇の皇子である。 三十七代斉明天皇の即位三年九月、気保養と称ってこの地に遊び、其の風光絶佳なるに深く感嘆し帰りて帝に奏上した。 帝はきこしめし悦びたまひて、一度みそなわさむとお言葉があって、其の翌年遂に牟婁温泉行幸となる。 左大臣蘇我赤兄留守を守る。ある日赤兄、時の失政を挙げて有馬皇子に語る。話の最中に皇子の倚れる椅子が、故なく折れくづれたのでこれは不祥だと言って皇子は話を止めて直ちに館に帰る。 其夜、赤兄は、部下を率ひて市経第の皇子邸を囲み、有馬皇子謀反したと帝に訴報する。 皇子護送されて白浜の行在所に来り、天皇、皇子の反状を問ふに、答えて曰く、「天と赤兄のみ知る。吾は知らざるなりと」。のち漣国襲をして有 間皇子を藤白坂に絞殺せしむ。と日本書紀に有り、時に、御年十九才であった。時の皇太子は中大兄皇子。 赤兄は蘇我入鹿の従兄。当時最も厳しき皇位継承論議の渦の中に野心家赤兄の為に計られ、千古の悲劇の御最期として史家は伝へている。 |
所在道案内←クリックすると略図を表示。 |
|