瀬戸と鉛山の関係による現況の白良浜を造り出した遠因

 松の湯の開業年月日を調べている内に、その理由を想像することができた。

 下記することが、白良浜の破戒となる大きな遠因であることは間違いない。

 先ず、湯崎から見た白良浜とは、大正11年の内湯旅館に始まる白浜館の開業である。これによって、湯崎の旅館は、内湯を造り、結果として、湯崎七湯はなくなった。

 湯崎区民とっては、白良浜はなかったほうが、よかったと深く思うのは無理からぬことだと思う。

 瀬戸は風呂がなくて、現白浜温泉土地株式会社から無料送泉で、松の湯を建築する。幾ら調べても、当時松の湯の建築費が何所から支出されたか不明である。

 瀬戸区での現白浜温泉土地株式会社の温泉堀で、当時の記録から見ると、現在から見て、公共の土地ではないかと思われる所で温泉堀をしている。

 その当時は、国有地、県有地ではなく、瀬戸区有地であったり、瀬戸の個人の土地であった。

 松の湯は、昭和4年6月1日に昭和天皇行幸の時はなかった。

 公の記録では、昭和8年に松の湯が記録されています。

 何故、開業年月日が公の記録に記載されなかったのかと不思議ではありませんか。 遠い昔に、湯崎区民が知らなかったことがあったに違い。

 湯崎区民は、白良浜については守るではなく、むしる破戒してもよい、瀬戸区民は、松の湯の関係で無言。

 このような、潜在的な意識が、現在の白良浜の姿になったと確信する。

 平成の時代になっても、このような無意識の意識が、働いていることに、恐怖を覚えた。

 <参考>