白浜町の自然で将来是非残さねばならぬものと云えば誰しも白良浜の白い砂と円月島だろうと思う。白良浜については南海地震の沈下もあるけれど、海岸構築物と潮流の関係もあってか確かに砂の量は減少した。白浜の顔とも云われるこの浜の保全に町当局は相当の予算を使って将来設計をされていると聞く。町民の一人として喜ばしいことと思う。
注、2001年4月7日撮影
一方、円月島については町職員が何度か松の苗木など植樹に登られたと聞いているが本体そのものの保全対策と云うようなことは今のところ何一つない。
注、2005年5月29日撮影
最近番所山の山崩れが目立ってきて塔島などの古い写真と現状は随分ちがっているし、昨年も山崩れして県費でもって応急手当をしたところがある。素人目にも地層の寿命が来たのではないかとおもわれるふしがある、同じ地質の円月島を心配するのもあながち杞憂ではない。
注、2005年6月6日撮影
注、2005年1月3日撮影 臨海・番所山・北浦洞門の上より塔島(大山、大仏、ふで島)
私は円月島の真正面に住んでいるのでカーテンをあければ春夏秋冬円月島と向かい合うので人一倍丸窓の上の天井を心配するのかもしれない。この二つの自然保護には膨大な費用が必要だが子孫に伝える財産として是非当局の御配慮をお願いしたい。
昔からあるものでこれは自然物ではない人工のものであるが、私は湾内にあるボーグイに一寸した関心をもったので感想文めいたものを書いたことがある。ボーグイと云っただけでは特に富田方面の方々にはわからないことと思うが旧白浜の湾内ところどころ海面に突き出ている石柱のことである。現在私の見て廻ったところでは十七、八本ある。本年七月二十二日の白浜公民館が実施している老人大学でこのボーグイの感想文を紹介したことがある。
◎ボーグイ
最近物置の整理をしていると広さ二畳敷程の船の旗が見つかった。「祝栄吉丸」と大文字で梁上げたもので私の亡父が栄吉丸という帆船を新造した時親類から祝いに贈られたものである。私達は子供の頃、船に揚げるこのような旗を「フラフ」とよんでいた。大正四、五年頃で六十年前の古いものである。
明治初年から大正にかけて瀬戸村といった頃、海運業がこの貧村の唯一の生活の支えであった。多い時は帆船が三十数隻もあって瀬戸浦や綱不知を根拠にして白良浜の砂運搬をはじめ石炭、木材その他貨物を阪神、九州方面の運送に活気を呈したもののようである。若者の殆とは船乗り業に従事し威勢よく海原をはしりまわり海以外の仕事につくものをオカド(陸人)とよんで軽蔑する風汐が長く続いた。
帆船時代からやがて機械をとりつけ所謂機帆船の世となったが、大正末期から昭和はじめにかけて海運業も衰退の一路を辿りやがて湾内から一隻二隻と姿を消して了った大ていは失敗して長い海運業に袂別し
たようである私の父もその一人である。
栄吉丸のフラフから多少私ごとにふれたが今残念に思うのは相当長年月のわたって当時の村の経済を支えた海運業がどのような発展ぶりであったのか、衰退の状況がどうであったのか、このような資料がどこにあるのであろうか
。
注、上記四枚の写真は瀬戸・大門家で2003年5月30日に撮影した。
それはさておき私は新ハト場(三所神社森から突き出している)へ釣りに出かける日が多い。
突端から対岸を臨むと通称シバタと呼ぶ平たい小岩が汐の干満に見えかくれする。その岩の上に石杭が立っている、これをボーグイと云っている。
注、2005年5月8日撮影
そこから湾内へ五十米ばかりのところに一本、他に一本と今海面に出ているのは三本だが久しく海底に横たわっているのが二本ある。
注、2005-06-05撮影
注大江冨夫氏の連絡により確認撮影した。追記2005/06/28
追記 2005年6月21日三本目棒杭
海運業の資料が何一つ分からないと云ったがわずかに往時を語りかけてくれる歴史の生き証人とでも云えるのがこのボーグイである。
港に停泊した帆船が険悪な天候に備えて船首からおろした錨の外に太綱をこのボーグイにつないで激浪強風をしのいでいた昔の瀬戸浦の風景を忘れることが出来ない。
海運業の衰微と共に用をなさなくなったボーグイが風波に倒れ沈んでも元通りにする必要もないのでそのままになっている。今、海面に浮かぶ幾つかの何のヘンテツモないボーグイがかってどんな役割をしたか、もう一世紀も瀬戸の入江で海面に見えつかくれつしているボーグイに、私は子供の頃の生活を思い出し深い感慨を覚えるものである。
海底に眠っているボーグイに何とか昔を語らせる方法はないものか。
(昭和五十一年記)
註=ボーグイは白良浜そのほかにもある。
× ×
釣りをしながらボーグイを見ている中につい思いついて書いたもので、誰に見せるというのでなく長らく本棚にしまっていた。ところが、本年六月頃だったか新聞紙上に白浜町教育委員会が綱不知のボーグイ二本を陸上にあげて保存し教育資料の一つとして将来に残すという記事が出た。私はこれを見て我が意を得たりとばかり本棚で塵をかぶった原稿を取り出し真鍋教育長さんに実はこれこれとかいて原稿を郵送した。先生なら瀬戸浦のボーグイにも何とか手を貸してくださるだろうと期待したからである。
やがて私の小さい願望のかなう日が来た。八月二十二日白浜水泳協会主催第一回記録会が終わった時、真鍋先生が午後瀬戸のボーグイを引き上げたいのでよろしくと協会員に呼びかけて呉れたのである。教育長、協会長はじめ十五、六人の若い人々、日頃こんな重労仂に関係のないと思われる人々だから大変な作業となった。私も云い出したものの途中で中止をお願いしょうかと思ったが若人の熱意の前にそれも云いかねた、高さ一・八米四〇a角の角柱、重量はどれ位だろうか見当が付かぬ。延々三時間、海底から五○米距離の所まで、全く必死の作業であったこのボーグイが五十年ぶりに日の当る場所に当るのは私の駄文がもとだが将来これをボーグイ碑としてどこか適当な場所に置き保存してほしいものと思っている。
注、2000年8月24日撮影
2005年6月6日現在の棒杭 |