鉛山七境詩などについて |
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@はじめ 銀沙歩は白良浜 金液泉は崎の湯 芝雲石、龍口巌は千畳敷であるが詳細不明 行宮址は崎の湯の上で現在のホテル シーモアの附近 平草原は現在も平草原 薬王林は湯崎館の上の薬王堂 この芝雲石、龍口巌のことについて、幾つかの記載がありますので、紹介します。 A参考文献 鉛山七境詩 享保18年 芝雲石 在浦西南磯頭形如亦似雲俗謂之千畳岩 磯頭一片石、萬人可似居、芝雲相襞積、五色挿芙蕖、不知女媧氏、非是補天余。 龍口巌 在芝雲西形状若龍首張口西開、領下凹處可以避雨 昔聞飲龍川、今看龍口巌、矯首呑滄海、明月吐復銜、泥盤海雲崖、長鯨莫相饒。 牟婁郷名勝誌の記載 明治38年から大正7年 龍口厳 千畳敷より東にあり、大なる岩つぼにてあたりの巌一面青黄白に彩りてさながら書ける如く眺め居ればそゞろ寒く身の毛よだちて仙境にきたる心地せらるゝなり、うつぼの深さ二町許ありといふ こほごほとおくかにひらく浪の音は龍の口よりいふくなりけり 辻千別 湯崎の船遊 大正11年 態萬状挙(せんたいまんじやうあげ)ていふ可らず。左方懸崖(さほうけんがい)の下に一洞穴(どうけつ)おり「蝙蝠穴(こうもりあな)」と呼ぶ。昔時(せじ)鉛を堀りたる坑穴(こうけつ)なり。其辺(ほと)りに巨厳の口を開て水を飲まんとするが如きものあり之を「龍口厳(りゅうこうがん)」といふ(此辺りに千畳敷あり)更に進んで「芝雲石(しうんせき)」の奇観を賞し稍(やや)東すれば海中二島あり。高さ各丈余(おのおのじょうよ)長さ拾数間、中間相(ちゅうかんあひさ)距る約三四間、海潮其間を去来(きょらい)し扁舟悠々(へんしういういう)として過ぐ甚だ奇也。漁叟(ぎょそう)呼んで「橋立海門(はしだてかんもん)」といふ。尚ほ東すれば「潮吹(しおふき)」に至る B推測 私の文献には以上のような記載があります。(各年代に掲載しています。) ここで非常に参考になったのが大正11年の「湯崎の船遊」で、まず、コモリの谷の蝙蝠穴
@、この谷は、コモリの谷と地元では言われています、一番奥の穴が蝙蝠(コウモリ)が住む穴 。この穴の「コウモリ」についての詳細は名勝案内を参照して下さい。 2002/03/31photo と橋立海門
で大な範囲が確定できます。 次にこの範囲で鉛山七境詩に「千畳岩」、「磯頭一片石」と記載があり、千畳敷の先端の石と推測できます。
続いて問題の龍口巌ですが、「若龍首張口西開」西の方向に穴が開いて、「領下凹處可以避雨」この記載より凹状で雨が降っても、その穴に入れば雨を避けることができるような所とは、又全体が龍の首から頭と口の開いている状態の風景であることを想像させることが条件となり、
続いて「昔聞飲龍川」とありますが、これも条件を満たさなければならない大切なことです。
ここまで研究して疑問があります。 牟婁郷名勝誌の記載に「龍口厳 千畳敷より東にあり、大なる岩つぼにてあたりの巌一面青黄白」と記載があり、先ず解決できるのは「巌一面青黄白」の記載ですが、千畳敷の現地をご覧になると、又は写真にても、これは理解できます。 次に一番の問題点は「千畳敷より東にあり」との記載です。千畳敷は広いので立つ位置によってもほぼ東の方向に龍口巌があると思われますが断定はできません。 又、牟婁郷名勝誌の記載に「うつぼの深さ二町許ありといふ」と記載あり、「二町」とは約218メートルで、推測する龍口巌の口までの深さは、千畳敷の頂上から100メートル以内であり、疑問は残ります。 何回も千畳敷に行き、現地であれや、これやと思いましたが、何れも推測でき、ほぼ条件を満たし、そう思われそうな穴は、上記の穴と石で私の独りよがりでしょうか。
上記の龍口巌の位置は大きく外れていることが、判明しました。 いろいろな書籍再度、見直しました。下記の参考文献をご覧下さい。 和歌 文政より明治 あら汐を呑みてはいふく岩うつほ龍の口てふ名はおはせけん 宇井可道 俳句 千畳敷、龍口巌、三段壁 三段壁舟遊 南紀 小山耕生 昭和8年6牟婁 磯鵯の囀りに舟とゝめけり 舟よせて鵜の巣は洞の奥とのみ 石蕗ぬくゝ三段壁は釣り日和 和歌で、「あら汐を呑みて」とあり、次の俳句では「船よせて」とあります。 前の龍口巌は舟は寄せられないし、汐も飲み込めませんことが、判明しがっかりしましたが、再度の探検。ありました、これ間違いなし確信した。そして湯崎の古老に確認。 鉛山七境詩の探検は終わり。 |
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まとめ |
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説明の赤字の位置と同じ番号の黒字が撮影地点です。 |
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如何でしたか。是非現地で文書印刷の上ご覧下さい。 芝雲石と龍口巌について、特に龍口巌 は初め三段壁洞窟と思っていましたが、三段壁の洞窟では雨をさける事はでない、ことから、あちら、こちらと、それらしき穴を探しました。 追加(平成14年5月17日)、最終まとめ 追加修正(2004年9月20日)、最終まとめの修正 牟婁郷名勝誌の「龍口厳 千畳敷より東にあり」の龍口巌が確認された。 千畳敷、芝雲石の東南にあったのです。 但し、場所によって方向が変わることを念頭において下さい。 鉛山七境詩の「若龍首張口西開」首が間違いなく、地図でも西の方向に開いていますし、昭和初期の写真でも確認できる。 牟婁郷名勝誌の「龍口厳 千畳敷より東にあり」は上記のように方向を測る場所によって 東南方向であること、鉛山七境詩の龍口厳が北東方面であることから問題でありますが、牟婁郷名勝誌の龍口厳の首は地図で東南方面に向いています。 で、鉛山七境詩と牟婁郷名勝誌の龍口厳は同じと考えられることもできるが、私は別々であると強く思います。 それは、芝雲石に立つと東南に、牟婁郷名勝誌の龍口厳が見え、鉛山七境詩のの龍口厳が見えないからです。 龍口巌は一つだと思い込み過ぎました。 尚、牟婁郷名勝誌の龍口厳は昭和24年の「白濱南湯崎地区風景計画 」の 地図と写真をご覧下さい。 最後になりましたか、ご覧頂ありがとうございました。 |
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