湯崎の山神社について

@、大正 4年頃の写真、下記二つの芝居は、この写真の場所で開催されています。

 大正11年4月3日、ウカレ節芝居湯崎山の神で開演、今夜から十日間開演

 歌舞伎芝居を湯崎山の神座の小屋で開く。

A、大正11年11月21日、郵便局移転、境内に新築され、神社の社はそのままの位置

B、大正13年11月1日、 有田屋三木善右ェ門氏、敷地内に不間けつ温泉温泉湧出を記念して、山神社に大鳥居奉納する。

C、昭和3年1月10日、山神社移転

 「全て解体して、人力で、現在の場所に運び、復元した」と云う。

D、昭和3年5月23日、駐在所新築神社跡地に新築

E、昭和10年5月27日、湯崎トンネル完成で、郵便局 北側隣に移転


 山神社について

 湯崎の老人に聞くと「郵便局側に社務所があって、広場があり、山神社の社があった」と言う。

 冬は西風が当たらず、夏涼しい、環境のよい場所です。

 写真でも船をのぼしていますが、当時、山神社境内に船をのぼしていたそうな。

 昭和3年110日に現在の山神社に遷宮するまでは、全ての祭ごとは、ここで行われたと、山神社があった山付近を「山の神」と呼んでいたと言う。

 山神社附近につて

  山の神の岩壁の崎付近を「シイハマ」と紀伊名所図会に書かれています。この「シイハマ」を漢字では「下浜」と書かれていた。「シイハマ」にある岩は、菊畳島(きくじょうじま)とも紀伊名所図会に書かれています。

  でも、私たちは、この浜を「北の浜」と読んでいました。

 山の神の道は、明治39年発行の紀州鉛山12景に撮影されています。

 余談ですが

  私の聞いたことを少し話します。明治から戦後まで馬荷車で、現在の上富田町生馬から米を旅館に運んできていたとよく聞かされました。ですから、当時から荷車が通行できる道が、ここにはあったのでしょう。また、湯崎の写真で疝気湯の横に小屋がありますが、その小屋に米を運んできた馬や牛を繋いでいたと聞かされた。

 私は山神社について疑問をもっていましたが、スッキリ解決しましたが、如何ですか。


 写真の年代について

 @,大正4年9月11日電灯、村内につく。

  A,大正11年11月21日湯崎郵便局移転、山神社跡地境内に2階建局舎を新築移転する。

  @は海岸道路に電柱が約4本立っている。Aは二階建局舎がありませんので,大正4年9月11日から大正11年11月21日間でですが、大正時代の写真から総合的に判断すると 電灯がついて間もない大正4年(1915)末頃と思われる。濱の湯手前の舟は「竿さし」をしています。もう、珍しくなりました。