銀砂湯の噴泉誕生と噴泉しなくなる推論 |
銀砂湯のことについては「時代の移り・まとめ」をご覧下さい。 大正時代の銀砂湯は内湯えの引き湯が目的ですが、昭和4年の増掘の銀砂湯は何が目的で増掘したのでしょうか。 何か手かがりを求めて意図的に記述してみましょう。 ※大正8年試掘 ※大正11年2月24日 湧出量 一時間 3.96石 温度60度 深さ8米5(鉄管長さ30尺挿入) ※大正14年1月石川調査 引き湯量 一時間 6.00石 昭和3年10月から銀砂湯増掘開始 増掘の目的は、大量の湧出量を求めたのでしょう。 昭和4年1月24日銀砂湯湧出 ※湧出量 一時間 60.00石 温度65度 昭和4年2月27日、天皇行幸の話あり。 昭和4年3月5日、行幸実現か 瀬戸鉛山村行幸記念絵葉書写真撮影時まで、銀砂湯の噴泉が間にあわなかったか、 内密の話が進行していなかったか、どちらかでしょう。 昭和4年5月25日頃までの間に、村内一部有志の内緒の話合いがあったり、噴出工事。 昭和4年6月1日、内密計画実行。 ※は温泉叢書・自然科学編参照 これからは全く噂話を交えながら記載します。 昭和8年頃、再度の噴泉工事 昭和9年9月21日室戸台風。 昭和12年夏、噴出写真あり。 その後の噴泉工事に失敗したのだと思います。 後はブクブク流れているような感じの写真がある。 自然に穴が砂などで詰まっていったのでしょう。 昭和16年、白浜温泉の諸文献には銀砂湯の湧出記載無。 |