台風・豪雨・干ばつの記録 |
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西暦 |
年号 |
年 |
月 |
日 |
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1732 | 享保 | 17 | 秋 | 大凶作、翌年にかけて大飢餓となる | |
1769 | 明和 | 6 | 7 | 11 | 70日ぶり雨降る |
1776 | 安永 | 5 | 7 | 25 | 大波のため瀬戸渡し船、会津川で転覆する |
1780 | 9 | 3 | 28 | 夜大雷雨瀬戸及び富田に雹(ひょう)降る。 | |
1821 | 文政 | 4 | 8 | 4 | 大風雨、富田川洪水 |
1823 | 6 | この年、四月から七月にかけて一〇八日あまり干天 | |||
1855 | 安政 | 2 | 8 | 30 | 大風雨出水高波のため鉛山温泉場往来道筋破損 |
1860 | 万延 | 元 | 7 | 11 | 湯崎温泉場及び往来道路、高波のため大破する |
1889 | 明治 | 22 | 7 | 13 | 十一日から連日の豪雨で綱不知道破損、白良橋渡れ、衝本坂の崩壊など被害続出する。 |
14 | 連日の豪雨のため鉛山薬師堂裏山林、午後三時頃、立木のままで五間余りの高さより崩潰し、酒井家裏手の三人家族の若田初蔵の家屋が埋没し、近隣の人ら多数出てこれを掘り起し夜半に至り初蔵と重傷を負った盲目の老父は救出されたが、老母は翌日午前十時に至り惨らしくも遺体となり発見された。 | ||||
15 | 湯崎在浴中の客人ら八〇余名が義捐金三円余りを集め遭難した若田初蔵に贈った。 | ||||
15 | 昨日遭難した鉛山の若田初蔵家に対し、村長芝田与七等発起人となり、義援金募集を始め、取敢ず本日中に集まった十五人よりの二円三十銭を若田家におくる。 | ||||
16 |
晴乞い祈願祭 連日の豪雨、霖雨のため河川水張り山岳崩壊、道路、作物に被害すくなからず、因って本日祈晴のため各自氏神に参詣の上、休業すべき旨、芝田村長告示を出す。 |
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8 | 19 |
県下大水害被害甚大 連日の豪雨により県下各河川の洪水は古来未曽有にして、ことに富田川、会津川流域の被害甚大。本支流の漲溢居舎人畜を漂わす。また残忍を極め田宅の全てものなきに至る。 県下の死者千二百四十七人、流失倒壊家屋七千五首余戸、浸水家屋三万三千余戸、橋流失九百三十一、船舶流失二百四十七隻、牛馬二百二十余頭、耕地宅地流失七千余町歩、堤防決壊千七百七十余ケ所、などの記録あり。 この水害で瀬戸の北裏の浜に凛着した死体で遂に身元の判明しない十余遺体は田尻、白浜、崎の北海辺の草地に仮埋葬したと伝えられている。 |
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9 | 20 | 未曽有の水害のため、瀬戸小学校校舎宮の舞台の家屋破損の箇所多く之を修理する。入費七十五円五十銭。 | |||
1898 | 31 | 10 | 14 | 午後六時頃、風静かにして、我然激浪烈しく押し寄せ、鉛山の海岸道路添いの居宅地に潮を山の如く侵入し、海岸に繋いでた小船も皆、道路上に打ち上げられ、海近い、礦湯、浜の湯、疝気湯、粟湯、五ヶ所は一面の海底となり、湯壷は漂流 物で埋まり、人々不思議な天候異変だと、大騒ぎであった。 | |
1902 | 35 | 9 | 4 | 此日より数日間、風波甚しく汽船田辺碇泊すること多し | |
1912 | 大正 | 元 | 9 | 23 | 前日来の暴風雨は午前一時項天に達し瀬戸浦の人家の海岸側の石垣は悉く波のために破壊され、人家の全半壊するもの多く、家には一枚の瓦も残さぬ惨状にして白良浜では松林の堤防を乗り越えた大波は下堀は勿論、上堀力までも一面の海と化し被害甚大なり。 |
1912 | 2 | 2 | 12 | 夜来より冷え込みきびしく降雪、積ると三寸乃至四寸に及び、未曾有のことなり。 | |
1917 | 6 | 7 | 25 | 七月七日以来、降雨なく田は段々亀裂ができ、池の水門を開けているが焼石に水で、畑作物も駄目になるとて百姓衆雨乞いする。 | |
10 | 11 |
夜来の大時化で瀬戸の浜添いの家が吹きぬかれたり石垣が崩れたり、ことに直大工(下地の元彦次)の家は波に壁を打ちぬかれ就寝中の子供が土間へ流されたと。 のぼし場へのぼしおくれた兵助さんと佐助さんの漁船こなごなになる。 |
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1918 | 7 | 2 | 3 | 雨降らざること六十日、綱不知は水枯れ、飲料水を下地の井戸にくむ有様であったが、本日喜雨一瀉、農民蘇生の思いす。 | |
1919 | 8 | 10 | 5 | 昨日から波が出て浦の漁船は全部のぼし場に引揚げて無事だったが、白良浜土地建物株式会社の海中温泉掘工事の仕掛けなど全部波浪のために破壊されて流失する。 | |
1921 | 10 | 7 | 1 | 入梅前より毎日大雨降り続き、稲は水浸しになり、田畑の堤は崩れ、道路破損箇所多く出る。本年は恰も明治二十二年の大水害から三十三年の忌に当るので、老人たち縁起をかついで大水害になるのでは ないかと案じる。 | |
9 | 25 |
夜中大時化となり、急のため浜の漁船のぼす暇なく、大波に全破された漁船八隻、その他の漁船も損傷を受け、家々の屋根瓦を飛ばされたもの多く、ことに西地方面では家屋を吹きぬかれたり壁をとられた家多し。 綱不知に入港中の第二栄昌丸外三十四隻の帆船も馬目崎に吹き上げられ田辺湾口で大阪の汽船沈没、文里にて商船会社の汽船が沈没するなど、大正元年九月二十二日の大時化に必適する暴風雨であった。 湯崎では、鳥沢丑松氏が借りていた印南の鉱泉運搬船、沖の波止場に繋留中もやい綱がきれて北の浜に打ち揚げられて破損。 |
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1923 | 12 | 1 | 2 |
昨日、今日と降り積んだ雪で一面に真白い。 瀬戸でこんなに二日も続いて雪が積んだことは珍らしい。 |
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8 | 17 | 梅雨が晴れてからもう一ケ月も降雨なく旱天続き、鉛山でも新設の上水道が断水。夜老若、松明をつけて白良浜で雨乞する。 | |||
1924 | 13 | 2 | 24 | 積雪三寸、白皚々。 | |
1926 | 15 | 9 | 17 |
大暴風となり中地、下地の海岸の家々屋根瓦を吹き飛ばされ、のぼし場の山家の家、風に吹き抜かれ、綱不知では数日前上棟式をあげた浦島旅館倒壊する。 翌十八日青年会員三十名出動して水船となりたる一栄丸を臨海の入神丸で綱不知港に曳行して荷物の陸揚げ、排水などをする。 |
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17 | 新宮の補助帆船一栄丸、この暴風のため江津良沖で水船となり、青年会員ら風波を冒して船員三名を救助する。 | ||||
1928 | 昭和 | 3 | 5 | 11 | 大時化となり、浜の漁船はのぼし場に曳き上げたが、汽船欠航で湯崎で一泊の団体客が幾組もあり、何れも閉口する。 |
6 | 13 | 空梅雨で田植えもできず、白浜や鉛山では水道が切れて飲料水にさえ難儀していたが、夕刻より待望の雨降る。 | |||
1930 | 5 | 7 | 2 | 四十日近くも旱天続きで、飲み水さえ不足となり、稲の植付け不能や、植付けた田も亀裂のため枯死に瀕する状態で、村民あげて白良浜で松明をたいて雨乞い祈頗を行う。 | |
1934 | 9 | 9 | 21 |
室戸台風被害甚大 午前六時、暴風雨猛烈を極め、村内被害多し。京阪神地方においても被害甚大。人命の犠牲者多数あり。 湯崎富幸埋立地で、土産物・食堂を経営していた浪花屋、大波が防波提を越えて押込み、店内破壊され、埋立地一帯海と化す。 |
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1935 | 10 | 8 | 28 | 九州一帯を襲った台風の余波をうけて、阪神地方又も水害の被害をうける。 | |
1936 | 11 | 8 | 28 | 家屋の屋根瓦を飛ばされたもの多く、青年会の幹部ら村内巡視して警戒にあたる。 | |
1939 | 14 | 10 | 17 |
真夜中より暴風雨、波浪激しく漁船、浜へおりる門などや家の庭先きまでのぼす。 村社熊野三所神社の例祭。この暴風雨波浪のため村内海岸道路など相当な被害を受ける。江住、串本、古座地方被害多く農作物は収穫皆無となり道路や橋の損傷も多く、汽車の線路流失して、約一ケ月汽車不通となる。 |
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1941 | 16 | 7 | 12 | 梅雨中降り続いた雨、今晩、豪雨となり各地被害あり、紀勢西線は江住、和深間で不通となる。 | |
1942 | 17 | 8 | 18 |
七月二日に梅雨があがってから今日まで一滴の降雨もなく旱天続きで畑物は勿論、川のない当町では稲もこのままだと収穫皆無、農会役員会で早急に雨乞祈願をすることに決め、正木庄左ヱ門さん、南庄五郎さんの二人の熱心な百姓さんが高野山へ詣でて聖火を受けて帰りニ十日の夜、白良浜で盛大を式を行うことになる。 旱天続きで海水浴客多く、この月初めからもう町内各旅館は満員続きの盛況 |
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1944 | 19 | 7 | 19 | 近来にない旱魃で上水道給水で田植えや芋植えなども終ったが、このままでは枯死を免れないので、今夜は本覚寺で祈祷をあげて白良浜で迎え火をたいて雨乞いの祈願をする。 | |
1947 | 22 | 5 | 29 | 季節外れの大風で、白良浜の県道に白砂が吹き積もって、諸車通行止め。県へ接渉の結果、県土木出張所が、高西組に依頼して砂をかきおろし、元の白良浜に戻す。 | |
7 | 20 |
十九日、二十日両日の豪雨により被害続出、被災地又家屋に対し、伝染病予防のため石灰散布など消毒を行う。 |
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10 | 2 |
関東水害義捐金募集打合せ 九月関東地方の水禍激甚を極めたるにより、南海震災の際、関東地方より寄せられた暖かい救援にむくいるため、義捐金を募集するために町長本日役場に、脇中白浜中学校長、南白浜小学校長、金田湯崎小学校長、藤井消防団長、山崎副団長、森本白浜青年団長、藤原湯崎青年団長らの参集をもとめて協議、二十日までにとりまとめることを決める。 |
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1948 | 23 | 8 | 27 |
二十六日降った豪雨は、二十七日にいたり、被害が出はじめる。 南富田甘藷畑五十六町冠水、増水七尺、北の郵便橋半分流失。 |
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9 | 16 | アイオン台風は、潮岬を北東に通過したが、湯崎海岸道路は打ち上げられた石だらけになる。 | |||
1949 | 24 | 5 | 23 | 豪雨で被 害 | |
6 | 18 | 六月十八日昼過ぎから降り出したデラ台風に被害続出。 東富田 高瀬川三町歩浸水。 | |||
19 |
豪雨で白浜地区、綱不知地区で浸水家屋被害出る。汽車不通となる。 |
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7 | 5 |
五日夕から降り出した豪雨で、又も被害出る。 東富田 床上浸水二〇戸 床下六〇戸 流失二〇町 冠水九〇町 堤防欠壊 三カ所 北富田 冠永八町 道路欠壊一三米 橋流失一ヵ所 |
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1950 | 25 | 9 | 3 | ジェーン台風猛威 ジェーン台風 | |
1951 | 26 | 10 | 14 | ルース台風 | |
1952 | 27 | 6 | 23 | ダイナ台風、 風速二十五米、白浜町の雨量二百十五ミリ。しかし、被害殆どなし。 | |
1953 | 28 | 7 | 18 |
早朝より豪雨あり。紀勢線鉄道、通信寸断され、県下一帯未曽有の被害を受ける。有田、日高郡地方ことの外被害甚大。 有田川が欠壊し、大災害となったが、富田地区も田が冠水して稲作に被害が出た。 南富田=田冠水二十町歩 畑冠水十町歩 畑流失五町歩 北富田=田冠水十町歩 東富田=田畑冠水二十五町歩 富田川四米増水 紀勢線は数ヵ所被災し、全面ストツブ。汽船が出る。 |
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9 | 25 |
台風十三号の来襲により、町内地域により浸水家屋など被害相当あり。 学校臨時休校。御幸通り九戸、綱不知で五戸床下浸水があった。 周参見南方で土砂が崩壊して紀勢西線不通となる。 白浜口駅から大阪方面行きは異状なし。 西富田村細野で高潮の為、床下浸水二十戸、田冠水十町歩、又鴨居の防波堤二ヵ所欠壊。 |
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1954 | 29 | 9 | 13 |
台風十二号の通過で、崎の湯は屋根を越す大浪で使用不能になった。他は旧町床下十一戸の浸水で被害はなかった。 田辺土木管内被害 旧町の瀬戸道路舗装崩壊 九五万円 湯崎防波堤欠壊 六〇万円 湯崎護岸欠壊三〇万円 見草で国道十五米崩壊した。 |
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1956 | 31 | 9 | 27 | 台風十五号は、汐岬沖五十キロ沖を通過、田辺の雨量二四一ミリの大雨になった。白浜口付近二ヵ所で線路が流され、列車もー時立往生。 | |
1961 | 36 | 9 | 16 | 第二室戸台風 | |
1967 | 42 | 7 | 9 | 集中豪雨 | |
1974 | 49 | 7 | 6 | 集中豪雨 | |
1975 | 50 | 8 | 23 | 台風6号 | |
1985 | 60 | 6 | 30 | 台風6号夜通過、ハイプレー下海岸に打ちよせられ、パナマ貨物船座礁、海中展望塔破壊 | |
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