大正10年(1921) |
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月 |
日 |
見 出 し |
内 容 |
1 | 29 | 京大臨海研究所誘致運動 | 京都帝国大学にて三重県か和歌山県に臨海研究所を設置することになり候補地たる本村へも池田理学博士が来村されて海岸の情況などを調査され、大いに有望とのことで、本日瀬戸部会を開き崎の浜の 部有地及村有地一町三反歩を提供して誘致運動を起すことを決議する。 |
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5 | 臨海研究所当村に内定 | 部民代表として芝田与七、芝田勇蔵両氏が上京、運動して本日帰村、当村に設置することに内定したと。 |
20 | 臨海研究所設置確定 | 京大・伊藤本部長、池田京大教授ら来村され、当村番所の鼻に愈々設置確定される。 | |
21 |
瀬戸部民大会 |
臨海研究所問題の経過報告と、土地の無償提供などを決議する。 |
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5 | 22 | 京都大学より池田博士一行来村 | 京都大学池田、郡場、金子の三博士来村され、臨海研究所の場所を視察し、愈々具体的に設計かかることになる。 |
9 | 18 | 京大の荒木総長来村 | 京都大学の荒木総長来村され、崎の浜に建設中の臨海研究所の現地視察をされる。 |
大正11年(1922) |
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3 | 30 | 臨海研究所の入神丸入港 | 実習船入神丸、大阪より機関の音も軽く廻航して瀬戸の港に入ってくる。屯数十九屯。船長雑賀弥之助氏。 |
4 | 18 | 臨海研究所への道普請 | 研究所の建物も大分出来たので、旧道の倉の鼻からの山路を拡げることになり、村中から賦役に数日出ることになる。 |
6 | 3 | 臨海研究所施餓鬼法要 | 長らく工事中の研究所か竣工し、開所式を挙行する予定の所、創立者池田岩治教授が急逝されたため延期して、同教授の追悼式と、工事中数多くの白骨が発掘されたこともあって、これらの無縁の迷える霊魂を慰さめ鏡むるために盛大な施餓鬼法要を営む。 |
7 | 28 | 臨海研究所開所式 | 京大理学部瀬戸臨海研究所の開所式、京大総長荒木寅三郎博士来所され、水族館無料開放、角力、投餅などあり、村内は勿論、近在からの見物人も多く終日賑う。 |
29 | 水族館公開 | 臨海研究所の水族館、地元の要望に応えて公開される。料金十銭。 |
昭和4年 1929年 |
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2 | 27 | 天皇陛下行幸の話あり | 或る筋よりの話によると、本県に行幸せられる由で、本村臨海研究所、勝浦か或は汐岬のいずれか、県内ニケ所になるらしいと。 |
3 | 5 | 行幸実現か | 行幸のこと単なる風説でないと見え、宮内省御用掛服部広太郎博士が臨海研究所を下調べ調査される。 |
6 |
木下、野口両侍従 |
今日の上り急行船で、木下、野口両侍従串本より田辺文里港着、田辺湾内を廻り臨海研究所を調査された。 |
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6 | 村会を開き臨海道路新設を決める | 行幸も確からしいとの見込みで村会を開き、瀬戸の浜の石垣に添って倉の鼻を廻り、磯伝いに臨海までの道路を、県の補助金と白良浜土地建物株式会社の寄附金で新設することに決める。 | |
15 | 県の土木・地方課長ら来村 | 行幸の下調べらしく、村内の地勢、産物、交通、その他詳細に調査される。 | |
23 | 侍従官来村で浜掃除 | 行幸地再見分のため侍従官ら来村されるとて、朝から瀬戸の浜や清水から綱不知へかけて、地区それぞれ出動して大掃除をする。 | |
軍艦五十鈴人港 |
侍従官ら文里港より新造の大型巡航船玉姫丸で田辺湾内を巡り、臨海研究所を視察され、夕方瀬戸の浜より白良浜を見て、綱不知より侍従官ら一行を乗せるため、今朝田辺湾に入港した軍艦五十鈴に移乗、串本へ向け出発された。 田尻浜前へ碇泊された軍艦五十鈴を、今日は藤九郎さんの祭りと軍艦見物人で裏瀬戸方面は大賑いである。 |
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4 | 2 | 行幸道路新設で魚市場移転 | 臨海行きの海岸道路工事にかかり、中地の浜の魚市場が邪魔になるので、戎神社下の空地に移転、大勢がかりでエッサエッサと運んで家を据える。 |
3 | 井の向いから小谷に通ずる堀割工事 | 白良浜土地建物株式会社では、井の向いから小谷に通ずる道路新設のため、山を堀割り切り下げ工事を始める。 | |
6 | 天皇陛下網不知に御上陸ときまる | 本村に行幸と決定されてから、その御上陸地は崎の浜か、崎の北浜かと取沙汰されたが、綱不知桟橋に御上陸、御徒歩を以って臨海研究所へ御出で遊ばすことに決まったと発表される。 | |
7 | 綱不知桟橋附近浚渫工事 | 桟橋附近、土砂流入して浅くなっているので、本県の浚渫船が来て本日より工事を開始された。 | |
17 |
行幸の警備などで警察署長来村 |
田辺警察署長来村、行幸の奉拝者はおそらく七万人位と推定されるので、警備取締りに県下の巡査が二百五十人と、それに軍人分会員も二、三百人応援に本村に渡ってくる予定だと言う。 |
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20 | 奉迎委員会結成 | 本覚寺において、村会議員、瀬戸、鉛山両部会議員、その他有志参集して、奉迎委員会を結成する。 | |
21 | 県係官ら続々と来村 | 県社会課長一行七人、午後は商工水産課長一行六人来村。それぞれ係りの打合せをするが、県庁内の横の連絡なしに総て村の方へ押しつけるばかりである。 | |
22 | 大阪朝日新聞社機飛来 | 村の上空を何回も旋回して写真を撮り、串本方面へ飛び去る。(この時の写真、二十六日の同紙第一面に大きくのる) | |
22 | 県の行幸事務出張所決まる | 県の地方課長が来て、県の出張所を瀬戸の元の芝田与七氏邸を充てることに決定する。 | |
23 | 村民の糞尿の細菌検査 | 村内各戸に検便、検尿器を配り、一人残らず村民の糞尿を採取して集め、県の衛生課へ送り、細菌検査を受ける。 | |
24 | 臨海の仮桟橋決まる | 南浜の仮桟橋は御採取のため御座船にお召しになる時の用意に村が架設。天侯の都合で御採取取止めの場合は、北浜より御召艦に御帰艦のための仮桟橋を県が架設と決まる。 | |
24 | 青年団服制定を決める |
瀬戸青年会では総会を開き、行幸を控えて団服制定をすることになり、詰襟か折襟かでもめたが、多数決で折襟団服と決める。 |
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30 | 光栄の海士決まる |
天皇陛下の御採取に奉仕する光栄の海士決まる。 網不知正木善松、中地金谷徳松、鉛山田中惣一、今津佐太郎、小山仙之助の五氏。当日四双、塔島、畠島などで海中に潜って動植物を採取申し上げる訳である。 |
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5 | 2 | 婦人会主催の活動写真 | 大阪における御親閲に出席するため、会旗を新調するとて会費制の活動写真会を催し、大入満員の盛況であった。 |
3 | 接客業者の健康診断 | 行幸の日が近づくにつれて衛生方面の取締りきびしく、全接客業者の健康診断とチブスの予防注射を実施した。 | |
10 | 村会議員選拳 |
行幸奉迎の光栄の十二名議員が当選。 田野永吉(再)、弓場虎蔵(元)、真砂竹次郎(再)、南常三郎(再)、南栄吉(新)、岩城徳松(再)、正木利平(新)、川口政太郎(再)、 今津勝太郎(再)、藤原豊三郎(新)、鈴木清一郎(新) 湯川喜三郎(新) 現職だった田芝儀太郎、宮本善四郎両氏落選の番狂わせであった。 |
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15 | チブスの予防注射 | 村民に対しチブスの予防注射を施行、七百人が受ける。 | |
17 | 行幸延期されて六月一日と決まる | 大阪市において悪疫流行のため、行幸を五月二十六日から六日間延期して、六月一日に決定したとの報あり。 | |
18 | 騒時接種実施 | 三百人に接種。 | |
19 | 村 会 | 改選後の初村会で、奉迎費三、五〇〇円の追加予算を可決し、奉迎準備など協議する。 | |
21 | 第二回チブス予防注射実施 |
この注射なかなかよくきいたのか、熱が出た人多し。 |
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22 | 臨海研究所の準備 | 光栄の日を間近かにし、研究所では毎日大勢の人夫や大エを入れて、立入禁止で準備に忙殺されている。 | |
22 | 臨海道路完成 | 四月初め工事にかかった臨海へのお成街道、昼夜の突貫工事で、瀬戸海岸から倉の鼻を廻り、番平谷、九郎右ヱ門谷の難所も、平担々のコンクリート舗装もできて、楽々とあたりの景色を賞することが出来て素 晴しい。 | |
23 | 村内全戸の便所の汲取り実施 | 便所や下水道などに消毒薬散布のため各戸の便所汲取を実施したが、畑や田のない家ではその捨て場にてんやわんやの大騒ぎとなり、百姓衆は我が田畑へ捨てられてはと見張り番をつけて警戒する始末で、村内至る所悪臭ぶんぶんである。 | |
23 | 県庁出張所開所 | 元芝田邸跡を借り受けて、臨時県庁出張所を松原県議が常駐して店開きする。 | |
23 |
奉迎門工事に |
村では綱不知桟橋を少し上った所へ、目下白良荘を建築中の島村組に四百円で奉迎門工事を請負わせ、既に三日前に骨組みを終った所で、今日突然田辺警察署長から中止命令が来た。その理由は、奉迎門は門の型にしてはいけない。萬一にも、聖上が門を御通過の砌 り、天井が落ちるような事があってはならぬ。門は門でも天のない門、即ち道の両側に塔を立てたような門にせよとのことである。ところが、この設計は数日前県知事、内務部長一行が来村された節、県営繕課の技手が苦心設計したもので、村へこれを建てよと示されて、村では大枚四 百円他の金子を奮発して建築にかかったものである。 |
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24 | 奉迎門工事再開 |
県の営繕課と警察部が話し合った結果か、警察署からそのまま工事続行してよろしいと電話があった。 今次の奉迎準備で県の各部各係の連絡の取れないために、村が迷惑したことおびただしい。奉迎門はその一例に過ぎない。 今春の横浜市の復興行幸の奉迎門は天があり、新聞にのっている。 |
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25 | 行幸警衛本部設置 | 上堀の角へ田辺銀行支店の白浜出張所が建てられ、その隣へ建てた二軒の貸家に県警の警衛本部を置き、近く警官三百人が出張して来ることになると。 | |
26 | 青年団自警団を組織 |
新調の団服を着用した団員集合して、自警団の発会式を行い、村内海岸の大掃除を奉仕。午後、瀬戸小学校々庭に国旗掲揚台を建設する。これは神戸市在住の瀬戸校出身者が大国旗を寄附されたので、六月一日に掲揚することになったためである。 自警団は今夜から村内の夜警に出動する。 |
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27 |
瀬戸住民総出の浜掃除 |
道路工事で瀬戸の浜中の砂が掘り取られて凸凹が甚しいので、下地、中地、西地の住民総出で砂を掻きならして大掃除をする。一日の当日はこの浜で、我ら二千の村民が跪座奉拝し龍顔を目の辺りに拝する場所である。 |
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27 | 献上品決まる | 天皇陛下への献上品を県は伊勢海老を、村は飽と名所写真帖一冊と決めて用意する。 | |
28 | 御座船の進水 | 行幸の砌り御採取のための陛下の御座船を下地の源大工さんが、のぼし場の船小屋で造船中完成、今日進水して、光栄の喜びで瀬戸の浜と臨海の浜で投餅をなす。 | |
28 | 警衛の警官隊来たる | 三百人の警官が来た。村始まってのことで、宿舎は本覚寺と瀬戸小学校である。 | |
28 | 御平安祈願祭 | 熊野三所神社で、村民一同参集して、聖上陛下の一路御平安を願って祈願祭を行う。 | |
30 | 奉迎委員の活躍 | 委員それぞれの部署につき、奉拝者七万人と予想されるので、それらの人たちの奉拝所をつくることになり、奉迎門もでき、綱不知から白浜の上堀り下堀りの沿線道路に添った空地に杭を打ち紅白の布を巻き針金で柵などをする。 | |
30 |
青年団席敷きの奉仕 |
過日兵庫県下から取り寄せ宮の舞台に保管中の蓆(むしろ)を全奉拝所に敷き並べる奉仕をする。 |
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30 | 臨海研究所の準備整う | 水槽室の水槽には種々珍奇な魚類が生けられ、実習室には県下の重なる生産物の天覧品、献上品が陳列され、御便殿に当てられる特別研究室では、田辺の盆栽、盆石の趣味の人達の出品物が陳列されるなど準備全く整う。 | |
31 | 軍艦「大井」など入港 | 軍艦「大井」及駆逐艦五隻田辺湾に入港して田尻沖に碇泊。これを見物せんと村の人大勢田尻浜に集まる。 | |
31 | 警衛厳重を極む | 県下から集まった警官、在郷軍人、消防組員ら数百名によって村内至る所の検索を行い、立哨するなど厳重を極める。 | |
6 | 1 | 天皇陛下行幸 | |
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1 |
軍艦乗組員に 記念品贈呈 |
行幸を記念して村で特別に特別につくった村内名所絵葉書八枚組五千五百部を奉迎委員会贈呈係長小竹岩楠、真砂竹二郎ら委員六名が西地の古川楠松のモーター船で午後二時田辺湾の御召艦長門に参上して贈呈した。 |
5 |
大阪に於て御親閲 |
大阪城東練兵場において天皇陛下の御親閲あり、当村青生訓練所生徒二名、青年団員二名も参加する。 |
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5 | 湯崎温泉文里土地株式会社より同社所有の行幸芝の保安林解除申請に同意を求められ漁業組合では、海岸より見通線一帯の樹木は一切伐採しないことを条件に同意。 | ||
17 | 御座船奉安 | 臨海研究所より払下げを受けた御座船を青年会員ら、のぼし場よりバン木を順々に並べて熊野三所神社舞台に運び奉安。 |
昭和5年 1930年 |
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1 | 臨海実験所の記念碑除幕式 |
同講内で行幸記念碑除幕式。村民、生徒ら多数参列して投餅などあり。 |
昭和6年 1931年 |
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8 | 13 | 岡村博士海草採集 |
水産講習所長岡村金太郎博士来村され、京大臨海研究所に滞在されて、毎日附近の海草を採集研究され、新種を発見されたと。 同博士は本年六十五歳我が国海草学の奉斗。 |
昭和10年 1935年 |
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1 | 20 | 御座船奉安殿 | 昭和四年六月行幸の際の御座船奉安庫を三所神社舞台跡に建築することになり入札。正木源九郎氏落札。 |
3 |
25 |
水族館 モダン龍宮に |
京大瀬戸臨海研究所の水族館、昨秋の風水害で大被害を受けたので、この復旧を機会に内容整備と拡張して標本室二棟の新設など、工費一万五千円で田辺清水組が請けて着工。五月末にはモダン龍宮に変身してお目見えすることになった。 |
8 | 1 |
京大サマーハウス落成 |
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10 | 15 | 御座船奉安殿竣工 | 三所神社旧舞台跡に建築中の奉安殿が完成。御座船を格納する。これで今年の祭りは広い境内を使える。 |
11 | 30 | 臨海裏海岸道路竣成 | 臨海から田尻、江津良を経て綱不知桟橋に至る道路を村が改修していたが、田辺湾一望の立派な廻遊自動車道賂竣エ、これで便利になる。 |
昭和12年 1937年 |
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6 | 1 | 行幸記念博物舘上棟式 | 江津良に工費三方円で建築中、本日上棟式を行う。 |
12 | 25 | 瀬戸臨海実験所と改称 | 瀬戸臨海研究所が瀬戸臨海実験所と改称されることになった。 |
昭和14年 1939年 |
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6 | 3 | 行幸記念博物館開所 | 江津良にかねて建集中のエ事を終り、陳列の整理も完了して行幸記念日の六月一日開館。二階建ての白亜の立派な建物です。 |
昭和17年 1942年 |
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2 | 3 |
行幸記念博物舘移転に決まる |
江津良にある行幸記念博物館もー時は県が町営にしてはとの話もあったが、その後、臨海研究所へ移転することに決まる。 |
昭和17年 1942年 |
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12 | 16 | 博物館の標本類運搬に児童ら奉仕 | 国民学校終了式後、児童達江津良から臨海に移転することになった博物館の標本類の運搬に勤労奉仕する。 |
昭和18年 1943年 |
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10 | 15 | 行幸記念博物館 |
かねて江津良から臨海の水族館北隣りに移転して内部改装中の行幸記念博物館も月末には完成して開業の運びとなる。 完成すれば一威容であり、自然科学の文化施設である。 |
昭和19年 1944年 |
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6 | 1 | 行幸記念博物館移転竣工式 | 江津良から臨海研究所横内に移転工事中完成して、本日移転竣工式あり。この博物館これを機会に、県から京都帝大に移管、今後、京大にて運営されることになる。 |
昭和20年 1945年 |
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3 | 1 | 臨海の水族館公開休止 | 京大の臨海実験所の水族館、本日より当分の間、公開を休止される。 |
17 | 臨海地区一般立入り禁止 | 海軍部隊臨海地区に駐屯のため−般の者立入り禁止となり、通行証発行などで打合わせの上交付する。 |
昭和22年 1947年 |
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4 | 22 | 臨海博物館を中学校に | 新制中学校校舎に京大臨海実験所構内の博物館の建物を借用する交渉始まる。 |
5 | 3 | 白浜中学校開校 | 学制改革により小学校高等科、青年学校が廃止されて、新制中学校制度が義務教育となる。白浜中学校を白浜小学校に併設、一部を京大臨海研究所内博物館を借用して、本日開校式を挙げた。 |
昭和25年 1950年 |
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8 |
3 |
京大臨海実験所夏期講習 |
今年から実験所のない大学の特別夏期講習を行い、連日受講生に内海教授以下、講義にいそがしい。 |
昭和27年 1952年 |
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8 | 12 | 臨海の水族館遂に学校直営に町経営論も自然解消 | 京大の水族館は、町観光協会から委託を受け、榎本林作氏が経営して来たが九月一日から京大直営に決定した。 |
9 |
1 |
臨海実験所 振興会発足 |
京大瀬戸臨海実験所の研究助成水族館運営等について助成の為、振興会発足。 |
10 |
12 |
臨海実験所 三十周年記念 |
京大では来る十八日、博物館階上で開催。服部学長も来白列席 |
昭和30年 1955年 |
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11 |
18 |
京大水族館の 入場者最高 |
十月中の京大臨海水族館の入場者は、月間の最高四二、000人を記録した。 |
昭和54(1979)年 | |||
9 | 20 | 瀬戸遺跡発掘調査 | 京大臨海実験所改築のため、遺跡の発掘にかかる。一〇月中旬までかかる予定。 |
昭和56(1981)年 |
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8 | 1 |
臨海水族館改築オープン |
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