西国名所図会の記載 年代参照 |
風莫濱 田邊と瀬戸の間にあり此海を土人綱しらずといふ山陰の入江にして難風の時といへども此浦に漕入れぬれば碇を下さず綱におよばず是によつて名づくと云、凡て此所風のなぎたる浦なる故に風なぎと云。 萬葉 風莫乃濱之白波徒斯依久流人無 長忌寸意吉麻呂 江面の浦 瀬戸の内にあり田邊より海上一里南也此地は田邊より瀬戸湯崎への通船の舟着也 田邊より湯崎の温泉に浴んと欲へば田邊の濱より日毎に通船ありて一時の間にゝに渡せり是より陸に上がりて凡十丁ばかりにして湯崎温泉の地に至る也舟路凡一里又陸路にて往んには田邊より東に廻り新庄の跡の浦鳥の栖堅田等を経て綱不知へ出夫より当江面に来り瀬戸を廻りて湯崎に至る工程凡三里所謂弓と弦の如し 藤九郎盛長祠 瀬戸村にあり江面よりニ丁余り行て瀬戸の村中より右の方へニ丁余入安藤藤九郎盛長の霊を祭る霊験いちじるしと云。 神主 四郎太夫 本社 盛長霊神 自作の木像を祭る 盛長之墳 神主の境内にあり、盛長所持調度 神主四郎太夫蔵之 社記曰 当社は天兒屋根命の神孫大職冠鎌足公の嫡孫太政大臣魚名公五代の後胤山陰民部卿四男上野介相継より四代小野田三郎兼広の嫡男安藤藤九郎盛長の霊神を崇祀る處なり抑人王五十六代清和天皇の後胤征 夷大将軍源頼朝公いまだ兵衛佐たりし時平治元年(1159)豆州蛭ガ小島に遠流せられたまふ其砌よりして安藤藤九郎盛長は佐殿に隋身し石橋山の合戦を初め数度戦場に軍功をあらはし武勇の聞へ最高し然るに冶世て後讒者の舌頭に罹り無実の罪を蒙り紀州瀬戸に配流せらる、されど数年の勤功によつて嫡男景盛に本領安堵の御教書を賜る依之盛長は瀬戸の浦に年を経給ひ其後富田の庄川村に遊びたまひしが不図も病に犯され既に危きにより瀬戸の浦に帰りたまひ終に正治二年(1200)霜月十三日に卒す即こゝに葬り霊社を此に営む者也霊神無実の罪の難を除き海上安全を護らせ給ひ日々に霊験あらたなる事挙げて数あるに 遑あらず且盛長在世の間釣を垂たまひしところ今磯に船を繫事を禁じたまふ誤って船をよすれば忽神霊の怒りを蒙る事甚し。 庄川村の古跡を藤九郎谷と號し小祠を営む此に大木あり然るに明和七年(1770)寅正月撨夫是を伐けるが忽一天かき曇り雷雨しきりにして山丘も崩るゝばかり也後種々奇瑞有て終に此神木に拘し徒多くは煩ひ或は死するも有とぞ尚詳くは霊験記に出せば略也 権現山 瀬戸村におり権現の社を建る 御船谷 山の背にあり往古古帝臨幸の時御舟を着させ給ふ古跡と云ふ 眼鏡岩 瀬戸の沖にあり岩の正中に穴有、昔は両穴ありし岩も有しかども今は別れてなしといふ 白良ノ濱 瀬戸村より湯崎村にいたる間にあり此濱の砂きはめて白し銀沙歩と號く(兼盛、仲實、宗長の白良濱の和歌、南海の銀沙歩の詩あるも略す) 鉛山浦 湯崎の浦ともいふ白良の濱につづきて小坂あり是をのぼれば湯崎にして入浴人の宿屋多し其餘商家漁師の家等岸にそひて家造りす四時ともに入浴の人間断なくいたつて繁昌の地なり湯の場所数多あり、おのおの其功能を分てり。いにしへ天皇御幸ましませし牟婁の温湯といへるは此地なりとぞ頗る風景の勝地なり。 (此處に南海の鉛山浦の詩あるも省く) 摩撫湯 又間阜湯とも書けり村中の入口濱邊に有、湯屋桁行凡四間半餘、梁行き凡二間餘内にへだて有て湯口をわけ湯壷ニヶ所とする湯壷長八尺餘巾五尺五寸許、深さ四尺餘、両所とも木を以て囲む底は石也 濱之湯 まぶの崎より小坂をへだてゝ濱の方にあり湯屋凡二間四方、湯壷凡長六尺許巾五尺許深三尺餘、木を以て囲む底は石を敷けり。 元之湯 濱の湯の向ふ、道の左傍にあり湯屋二間餘四方、湯壷凡一間四方、岩をもつて造る、深さニ尺餘 館之湯 元の湯の先、道の左山の方にあり湯屋桁行三軒梁行二間又一間休憩所を建添る。湯壷凡長五尺六寸四方、深四尺餘、周は木を以て囲み底は石也 崎の湯 人家を放れ一丁餘り海岸に盤石おのづから湯壷となる上に藁葺の屋根を覆ふ軒前長さ五間妻の巾二軒、古歌に 濱のはしり湯と詠るは是なりとぞ 湯壷の長さ凡ニ丈五尺許、巾九尺或五尺又三尺餘の所も有て岩の出入おなじからず又深さもおなじからず凡四尺或ニ尺餘一尺餘も有て其形容大概人の坐したるに彷彿たり俗に薬師の像なりと云 (南海の金泉液の詩ここにあるも省く) 時雨松 崎の湯の傍にあり枝葉より露したゝりて常に樹下をひたす故に號く。 新湯 崎の湯より半丁許北方往来の右磯邊にあり屋根覆ひなし俗に○○湯と云、湯壷凡一間四方、深さニ尺餘、石を積てこれを作る。 阿和湯 館の湯の下往来の傍にあり穴の湯とも云形ち圓し石にて作る、径凡ニ尺許深さ一尺餘、覆ひなし脚気、頭痛、眩暈、ただれ目を治すといふ。 疝気湯 あわ湯の傍磯邊にあり湯壷長凡四尺餘、巾三尺許、深さニ尺餘、覆ひなし、疝癪の者浴して即効ありと云 眼洗湯 摩撫の湯の北岩窟の前にあり石の窪き處より湧出する眼を浸して効あり、やに目、ただれ目に即効ありとぞ。 主治 本の湯は陽中の陰にして癩病、痼疾、下疳、瘡毒、痬毒、膁瘡の類、あるひは○血腹に入たるを治す。館の湯は本の湯に等しく痘毒折傷金瘡灸瘡小瘡癰疸瘉がたきによし、或は小兒の胎毒、諸瘡によし但し腹張痞へ積聚水腫には悪し大食後食傷後には浴すべからず妊婦の婦人度々浴するは宜しからず、間阜の湯は性温和にして諸風筋骨率縮手脚痳痺痿或は疥癬諸病皮膚骨筋にあるを治す、濱の湯は間阜に等しく少異なり、小瘡初発或は痞満積聚中風○血折傷胸痛肩痛痛風諸痔脱肛を治す但発生甚しき故虚人は筋 脉を損ずる事あり度々は浴すべからず。○崎の湯は陽中の陽たり諸痔或は痳病或は七疝腹満背張腰痛下血脚気婦人の帯下を治す但し虚人小兒は宜しからず云 南紀武田氏著温泉主治ニ出 薬王堂 館の湯の上の山にあり瑠璃光佛を安ず行基作と云慶長年間来迎寺開山ト誉上人安置のよし林を薬王林といふ (南海の薬王林の詩あるも省く) 御幸之芝 崎の湯の上山の方に往昔白河帝此温泉に浴し給ふ時行宮を営みしところぞ(南海の薬王林の詩あるも省く) 千畳敷 西南の海岸にあり千畳じきともいふ数十丈の大盤石にして其形恰雲の如く霊芝のごとし南海先生これを紫雲石と號く奇観双びなし。 (南海の紫雲石詩あるも省く。南紀武田氏書あるも略す) 龍口巌 千畳岩の西にあり其形龍の口を開くが如き巨巌なり其領というふべき下の入こみたる事深くしてこゝに宿りて雨をしのぐべき岩窟なり。 (南海の龍口巌の詩あるも省く) 龍門石 館の湯の下森氏の庭前にあり恰も壁を立たるが如き盤石にして石面に瀧を昇れる鯉のごとき形ちおのづからあらはれあり。 湯崎温泉碑 村中金徳寺の門前にあり碑石の高さ凡五尺五寸巾凡ニ尺台石凡八寸餘尚下に自然石の台あり、天保年間に建るところにして碑文は仁井田氏の撰あり。(こゝに湯崎温泉碑文および金徳寺霊泉の碑文の和解を掲げあるも省く) 庚申山 金徳寺の傍より上る事凡三丁餘にして庚申塚の祠あり此處より西北の眺望絶景也石祠には青面金剛を祭るなるべし。 平草原 浦の東南の山上をいふ絶頂一円に平らにはて広きこと野原のごとし尤も一株の樹木なくただ草のみ其美景なること言ひも盡しがたし。 (南海の平草原の詩あるも省く) 此平原より向ふを望めば入江の蒼海漫々として熊野の連山峨々と従え田邊の城下神島神楽崎の島々直下には綱しらず白良の濱偖又田邊の濱よりして弓手に続て南部の浦岩代切目日高の端は元より天晴る日は阿波の国なる島山までも見へ渡り許多の小島此彼に有て石を撤に等しく其形各異にして絶景なる事彼松島の光景に彷彿たりと言あへり。 斥候樓 瀬戸の浦の海中にあり山上に高さ丈餘の樓を築く、樹木其周を囲り田邊の藩士相交代してこれを鎭り異国の来船を諜ふよし。 |
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