年 表、西暦1800年へ

西暦

年号

 

1701 元禄 14 3 28 四代国主ョ職、湯崎へお成り
1702 元禄 15 3 12 将軍吉宗公湯崎へ御成 主税頭の頃(ョ方)
1703 元禄 16 2 19 将軍吉宗公湯崎へ御成 主税頭の頃(ョ方)
  元禄 16 9 22 ョ職、瀬戸お成り
1707 宝永 4 10 4 大地震津波。(「岩城氏の墓陰」「万代記」ほか)
1710 宝永 9 9 19 六代領主陳武、瀬戸湯崎お成り
1718 享保 3 9   紀藩塩屋市郎兵衛、瀬戸に来る
1719 享保 4 2   紀藩水野太郎作、鉛山へ入湯する
1721 享保 6 閏7 11 瀬戸鉛山両村、風除林伐採禁止の協定成る
      8 6 薬草御用役人江戸医師野呂源次ら瀬戸に来る、翌年7月12日再び田辺を通る
1726 享保 11 2 17 紀藩三浦遠江守為隆、瀬戸来浴
1727 享保 12 5 29  綱不知、太刀ケ谷などでゴンドウ鯨391本捕獲
      6 12 江戸より薬草役人植村佐平次らの一行瀬戸に来る
      6   本覚寺本堂再建
1729 享保 14 9 13 紀藩朝比奈惣左衛門、湯崎に來浴
1732 享保 17   大凶作、翌年にかけて大飢餓となる
1733 享保 18 3 14 祇園南海、鉛山に遊ぶ
1734 享保 19 9 3 紀藩水野勘解の母、湯崎に來浴
1740 元文 5 10 22 九代領主次由、湯崎お成り
1742 寛保 2 10 このころ、三浦長門守、若山より湯崎に來浴
1746 延享 3 4 7 瀬戸村にて芝居あり、町在のものへ見物禁止令でる
1747 延享 4 9 23 和歌山藩士安藤札右衛門の子息権右衛門湯崎に遊ぶ
1750 寛延 3 5   田辺組の名所古跡書上に白良浜の名が見える
8 1 若山の奉行渋谷文右衛門の次男村田善右衛門、鉛山に來浴
1753 宝暦 3 5 20 町大年寄糸川五郎左衛門、下長町年寄喜平次、湯崎へ湯治に行く
10   日高御坊の庄太夫船、水船となり船頭水主ら11人瀬戸へ上陸する
1759 宝暦 9 3 28 朝比奈惣左衛門、湯崎に來浴
1761 宝暦 11 2 12 新庄村庄屋清三郎、湯崎入湯願い許可
1763 宝暦 13 9 26 町大年寄玉置惣右衛門(後平十郎と改名)、湯崎へ入湯願書出す
1765 明和 2 2 17 西野々・平野両村庄屋為助、湯崎へ入湯の願書許可
1769 明和 6 3 25 町年寄玉置平十郎、瀬戸へ入湯願書出す
5 8 町年寄玉置喜市、鉛山へ入湯に行く
7 11 70日ぶり雨降る
    この年、来迎寺境内に観音像建立
1771 明和 8 2   瀬戸村の稼場へ鉛山村民の入込み禁止を周参見組大庄屋へ瀬戸村訴える
1772 安永 5   郡奉行玉置九左衛門、湯崎へ湯治に来る
      11   本覚寺鐘楼堂竣工
1774 安永 3 10 4 紀侯(重倫)の侍女某両名湯崎に来浴
1775 安永 4 7   城代家老安藤小兵衛、鉛山に入湯する
1776 安永 5 2 4 湊村庄屋伴次郎湯崎で湯治する
3   紀藩稲田五郎兵衛息兄弟、湯崎へ入湯する
7 25 大波のため瀬戸渡し船、会津川で転覆する
    この年、金徳寺再建
1777 安永 6 12 16 江川浦漁船、瀬戸沖で転覆
1778 安永 7 7 9 瀬戸番所交代船焼失
2 16 瀬戸村で大火、47戸焼失
5 29 御関船竜頭丸、綱不知へ入津
10 1 夜から降灰、桜島の噴火による
1780 安永 9 3 28 夜大雷雨瀬戸及び富田に雹(ひょう)降る
11 14 紀藩大沢豊左衛門熊野三山参詣の帰途、富田より瀬戸を経て南部へ渡海する
1781 天明 2   本覚寺、京都知恩院直末となる
1783 天明 3 11 19 前国主重倫、湯崎お成り
1786 天明 6 3 16 紺屋町年寄吉右衛門・伝馬庄屋庄次鉛山へ湯治に行く
4 13 町大年寄佐武仙右衛門鉛山へ湯治に行く
11 15 江川浦手繰船、瀬戸崎にて難船
1787 天明 7 3 13 伝馬庄屋庄次湯崎へ入湯願書許可
9 19 町大年寄玉置喜平次鉛山へ入湯願書許可
1788 天明 8 2 4 前国主重倫湯崎へお成り
4 16 玉置喜平次鉛山へ入湯願書許可
6 11 本藩佐野伊右衛門・堀内彦太夫南部より鉛山へ渡海する
1789 寛政 5 3 玉置喜平次湯崎(鉛山)へ入湯願書を出す
1790 寛政 2 2   長崎までの回送の唐船、瀬戸崎を通過
4 12 玉置喜平次、鉛山入湯の願書許可
1791 寛政 3 3 4 紺屋町年寄今吉、鉛山へ入湯願書を出す
3 16 画家野呂介石、鉛山に遊ぶ
3 20 町大年寄玉置惣右衛門鉛山へ渡海する
5 28 田辺組谷村庄屋喜平、鉛山へ入湯願書を出す
    桑山玉洲
1792 寛政 4 3 2 今吉、鉛山へ入湯願書を出す
3 5 江川庄屋惣助湯崎へ入湯願書を出す
4   男女混浴禁止令施行される
8 13 佐武庄五郎(慈幸屋)鉛山(湯崎)へ入湯願書許可
9   田辺領内(瀬戸鉛山両村も含む)寺社改あり
1793 寛政 5 6 17 幕府勘定奉行丹羽伝四郎らの一行來巡の途次鉛山に止宿する
7 26 田辺組大庄屋田所八郎左衛門、鉛山へ湯治に行く
1794 寛政 6 3   田辺領郡奉行湯崎に入湯する
4   若山、浄瑠璃太夫ら一行鉛山に入湯する
11 22 一位公御成 紀藩10代 治宝、湯崎お成り
1795 寛政 7 10   田辺・多屋六郎太夫鉛山へ入湯願書出す
1796 寛政 8 8 3 多屋六郎太夫鉛山へ入湯願書出す
1797 寛政 9 3 28 田辺・玉置喜市、鉛山へ入湯に行く
1798 寛政 10 4 12 本居宣長の「玉勝間九の巻」脱稿する。同書に「白浜」呼称見える(「玉勝間」)
5 27 伊作田村庄屋喜兵衛、湯崎へ入湯願書許可
5 29 湊村庄屋次郎右衛門、湯崎へ入湯願書許可
1799 寛政 11 5 25 前国主重倫、海路白良浜にお成り
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