御本尊
阿弥陀如来尊像
本覚寺
Photo/2005-10-23
寺号宗派 大信山本覚寺 浄土宗鎮西派京都知恩院末
所 在 地 白浜町瀬戸六二〇番地
本 尊 阿弥陀如来座像
開創の年代は不明であるが(一説応仁のころと伝う)、もと自良浜奥寺谷にあったのを、慶安年間(一六四八〜五二)現在地に移し中興開山したもので、寺谷にあったとき真言宗の寺であったのを、真言宗の信徒が衰えたので、瀬戸に移して浄土宗に改めたものと伝えられる。また本尊木造阿弥陀如来(座像)と脇侍二菩薩(立像)の三体は、往昔(一説元禄のころと伝う)崎の浜へ三日間に漂着したのを安置して祭ったものであるという。
初めは田辺竜泉寺の末寺であったが、この眼誉の代、清信院(八代藩主重倫の実母)の帰依を受け、紀州本藩家老奥野宇左衛門・江馬与右衛門の斡旋により、安永九年(一七八〇)二月十九日、和歌山吹上御殿に召出され、永代本覚寺の什物にするようにとのことで、大枝流芳著『貝尽浦の錦』上下二冊を賜り、次いで清信院のはからいにより翌年(一七八一)二月二十三日竜泉寺を離れ、知恩院の直末となった。その報恩のため住民が毎年春秋の二回藩主の許へ参上してご機嫌をお伺いし、もし珍しい貝が手に入れば献上し、そのような貝がない場合にはご機嫌伺いのみで退去するのを例
としていたという。同寺が江戸時代から貝殻を多数収集して「貝寺」と呼ばれ親しまれるようになったのには右のようないわれがあるわけである。
当寺へは藩祖頼宣、二代光貞、四代頼職、五代頼方(のちの八代将軍吉宗)ら歴代藩主が「お成り」になっており、葵紋付の幕・提灯などの寄進を受け・藩祖の位牌を祭り(ちなみに湯崎金徳寺及び来迎寺にも安置されている)、南紀徳川家と関係ある寺として一種の格式をもっていたようである。
紀州藩主位牌殿 Photo/2005-10-27
藩祖徳川頼宣候ほか歴代紀州藩主の位牌を祀る。
崎の浜へ仏像を引上げる図(絵巻の一部) Photo/2005-10-27
境 内
貝類展示室 Photo/2005-10-25
貝類展示室内 Photo/2005-10-29
ホンカクジヒガイ(本覚寺杼貝)
Photo/2005-10-26
青々の句碑 本覚寺地蔵尊 大乗妙典六十六部日本廻國塔 徳本
上人
名号碑
芝井戸 |