第3章 中世前期の上富田

  第一節 院政期の上富田

   熊野別当家の一、岩田家

 熊野(三山)別当とは、熊野の中で庶務を司る役職を指し、かなり早くからその地位があったことを示す史料が存在する。しかし、同時代の確たる史料に見えるのは、長保二年(1000)にからである。そして、そののち数十年経って、長快なる人物が熊野別当になると、彼の類まれな政治手腕によって、熊野は隆盛を迎えることになった。

 寛治四年(1090)の白河上皇の熊野御幸に際して、熊野側でのいっさいを取り仕切り、熊野別当家という家を創出したのも、この長快といわれている。結果、歴代の熊野別当の中で初めて、当時の朝廷における僧侶のランク付けにおいて「法橋」という地位を得ている。彼は最終的にはこの僧位の最高位である。「法印」まで昇り詰めているが、その後の歴代の熊野別当家の人々が次々とこれらの僧位に就いていることを考えると、その先鞭は大きなものであったと言わざるを得ない。

 そして、その長快の子供たちによって、「熊野別当家」なる家が形成され、熊野山全体を統括する一大勢力となることに成功したのは、その子供たちを熊野の要地に配したことが、その大きな要因であるとされている。まず、嫡男の長範を新宮に、四男の湛快を田辺に、と本宮を中心とした熊野の勢力にとっての最前線基地となる地域に配し、また三男の長兼の流れに岩田地域、五男の範快の流れに佐野(現新宮市佐野)地域、としてそれぞれ勢力の扶植に勤めた。結果、各地域にその勢力基盤を確立した諸家が、競って熊野別当家の覇権を争い、平安末〜鎌倉初期の熊野三山隆盛の基礎となっていったのである。(坂本敏行「熊野別当家嫡子・庶子分立による在地支配の確立と三男流の長兼家による富田川中流域支配の実態について)


 別当湛増闘鶏のこと