海賊退治の事について、私の頭の冒険

1530年頃、瀬戸は森三味入道の子森三五郎が支配していた

享禄4年(1531)1月25日に地域一帯をあらしていた、海賊と戦いをするが、森勢は負ける。それで日置川の本陣に報告し、退治することについて相談する。

ここで相談に加わっていた小山太郎が先祖に海賊退治の経験があるので、退治する戦いに名乗りをあげる。聞いていた人は先祖に海賊経験は真実と思い、別の人にも相談して、小山太郎を参戦させる事に決める。

翌26日8時に小山太郎は瀬戸に着くと市ノ瀬の山本勢が来て合流する。

注、石見守経幸(皇室と紀伊)と小山岩見幸径(安宅一乱記)とで名前が異なりますが、小山太郎が口述を後に記載していますので、同一人物と私は想像した。

<想像>

25日に戦い、日置川へ報告と戦う相談、小山太郎が参戦決まる。

小山太郎は日置川の久木へ帰り、兵の準備して、翌26日まで瀬戸まで来れるのでのでしょうか。

まず、25日は早朝7時から約2時間戦いがあったとして午前9時、それから瀬戸から富田坂・安居を越えて日置川まで馬で4時間とすると午後1時、相談2時間、午後3時、日置川の本陣から日置川の久木まで馬で2時間、午後5時、戦いの準備。

1531年 1月26日午前5時久木出発、久木越え、庄川、富田、綱不知、瀬戸、3時間で午前8時頃から開戦となったのでしょう。

ここで瀬戸から富田までの道についても、想像することができます。

まず第一は鴨居ルート、第二ルートは平草原越え、第三のルートは桃の木峠越えが考えられます。

鴨居ルートは湯崎の本町からゴルフに至り、鴨居、西富田から富田坂。

平草原越えは瀬戸、立が谷から平草原、西越、富田坂。

桃の木峠越えは瀬戸、桃の木峠、西富田、富田坂。

JR白浜駅浦に要害城があったことから見て、桃の木峠越えが有望です。

山本勢30兵と小山勢30兵、合計60兵

熊野古道・大辺路(富田坂、安居坂)参照して下さい。

小山勢が瀬戸崎に着くと、海賊の船20余隻櫓を漕ぎ並んでいて、森勢にモリや弓をもって討ってきて、瀬戸崎に上陸、海賊と森勢と入乱れて戦うが、森勢が防戦一方で江津良浜 まで後退する。

小山、山本勢が加勢し、海賊が瀬戸崎の方へ後退、これを見た小山太郎、兵を分けて、一方を瀬戸崎に行かせ、上陸していた海賊の船全て沖に流し、水主(漕ぎ手や、船を操り人 )を切殺す。

総力戦いとなり、小山連合軍が優勢で、海賊瀬戸崎に退却するも船が一隻もなく、引き返して戦い再開、大将同士の戦いもあり、小山太郎が海賊の頭取に勝つ、全ての海賊(100余人)退治して、褒美をもらったと言う事でしょう。

<想像>

小山連合軍の総兵力は

小山、山本勢60人、森勢50〜70人と想像します。

この森勢の数は海賊の兵力よりも少なく想像したのは、最初(25日)の戦いで負けているからです。

海賊の兵力は

約170人位だと思います。この内訳兵110人位、船関係1隻に3人として20余隻ですら合計約60人。

小山連合軍が江津良の何処に陣をはったか。 地図をご覧下さい。