安宅一乱記の熊野三山(本宮・新宮・那智)への記述

 安宅一乱記は原本に年代の記載がないのでしょう。年代の記載のあるもの、ないものが混在していますので、安宅一族の記録より室町時代、戦国時代中頃 {元和元年(1615)}までの約200年間の時代として記載します。

 記載から抜粋すると

 一、巻之一目録 正月十七日戦之事

 大永六(1526)年より享禄三(1530)年まで一家中無事に出勤したりけれが(略)、周参見へ落、夫より三山へ向趣給ふ、(略)、川登りに三山へ、(略)、田辺へ、(略)、敵の馬奪い取、打乗て周参見へ越へ、三山へ落行く処、 

 (略)。

  私こと思う。

  享禄三(1530)年1月17日相続争いが起り、相続争いに負けた安宅一  族などの落ち行く(逃げた)先を記載したもので、

  「川登りに三山」とは、日置川を登り安居から富田坂を越えて、富田に 出て、中辺路古道で熊野三山方面に逃げたのだと思います。

  安居には強力な小山勢があり、問題もあります。この記述には小山勢の ことについての記載がなく、勝組か、負組かも不明です。

  もう一つ、考えられることは、地元で、地理に明るいので、日置川を遡り大塔村の滝尻附近に出るか、そのまま、大塔山の麓を通り、熊野三山へと 向ったとも考えられる。

  「周参見へ落、周参見を越へ」は、安居から仏坂を越えすさみへではなく、当時は、坂本の宝ノ谷から三里の峠を越えてすさみへ落ち、大辺路古道を熊野三山方面に逃げたのだと思う。

 「日本九峯修行日記」に「すさみより三里の峠を越えて安宅村・・・」と記載

 あり、このすさみへの落ちはこのルートで、後、大辺路古道で落延びたと 思います。

  表題とは、関係ないのですが、「田辺へ」は船ではなく、陸路で、安宅か ら富田越でなく、田野井越で、富田坂を下り、大辺路古道コースで田辺へと思います。


 二、 巻之一目録 和田・中嶋・知原附り奥方三山落之事

 (略)、然るに十七日の戦ひの後、御台、若君は(略)、その夜江住迄落延び同所へ泊り、翌朝未明に早船にて串元に着、三山へ参拝の人々の姿にやつし、夫○古座・田原・浦上・太地より船に乗り、天満へ着けれハ、

 (略)。(注、○は文字がありません。)

  私こと思う。

  「その夜江住迄落延び同所へ泊り」、その夜とは時間が確定できません が、暗くなってから逃げるのが常識ですから、安宅附近から田野井・安宅・仏坂越え・江住までは、夜間の女性(御台)の落延びは大変で、坂本附近からすさみ・江住と思う。

  江住より「翌朝未明に早船にて串元に着」との記載、前日の夜間歩行の 疲れか、陸路の長距離のところは船で串本へ落ち行く人の心情が表れています。

  大変興味あることは、「三山へ参拝の人々の姿にやつし」と記載されて います。当時も大辺路古道を通って、熊野三山参拝があったことが伺われます。

  「古座・田原・浦上・太地」は歩行し、「太地より船に乗り、天満」と歩いた り、船に乗ったりしていますが、女性と若君の疲労からでしょう。

  当時、船による往来も可能であったことが判ります。


 一と二は落ち行く先を記述されています。そこで、何故、山深い熊野三山かということについて、不思議に思いますが、熊野参詣の警固などで落ち行く地理も明るいことも一因で、大雲取越の小口村の記述を参照すると、何か落ち行く先が熊野三山であることが少し 理解できる。


 三、 巻之一目録 安宅大炊卿之奥方三山に通夜之事

 (略)、十月廿日に本宮坂本宅に趣、御橋の元に廿七日迄通夜し、(略)

 廿七日の夜、宮山の烏数百羽悦の声を告て西に飛行、夫より那知に帰りて滝の元に七夜籠せ給ふに、梛(なぎ)の葉数多流れ来て、空へ飛行かと夢の様に覚けり、(略)、安宅より飛脚到来し、一昨日の戦ひに味方打勝、(略)。

  私こと思う。

  本宮にて通夜、後那智、これは中辺路古道コースで、大辺路コースなら  那智から本宮でしょう。本宮にて通夜ということもありますが、これとて楽な海路があり、海路は得意な水軍です。本宮にて通夜と熊野参拝を行ったのと、里帰りもあったと思うが、熊野参拝は「難行苦行」が風習ですから、那智実方院の娘として、中辺路古道コースを歩いたと思う。

  ここの記述で、宮山とは旧本宮大社と思う、烏とは八呎烏で熊野三山の  シンボルで熊野牛印にもなっている。また、西は極楽浄土を意味したものと思われ、那智にて滝の元とは那智山を代表するところ、七とは縁起のよい数字で、修行と祈り、梛(なぎ)は神木で、この記述は、短い記述であるが、熊野参拝の全てを織り込まれたものであると思う。

 安宅大炊卿之奥方は那智実方院の娘で、安宅大炊に嫁にきた人。

  飛脚について、この地方でも戦略的な意味もあるが、船か、陸路かは別にして、情報の伝達の手法があったことを想像ではなく、記述として確実に伺わせるものである。