鉛山鉱山貢租定(附、鉛山鉱山ノ開鉱及中止年代考) |
一 鉛山公用之俵頭壱人二付一ケ月二鉛雖為弐百五拾目相許山日弐百目 ニ定遣候事 一 山へ入候儀徒田邉過分ニ高人来候得共是又相許一わり高二申付候事 一 此外之役儀悉相許上ハ堀子共集候様ニ無油断入精事 右條々堅可守此旨聊非分之儀於有之者此方へ可申来聞届上可行曲事者也如件 慶長五年十一月朔日 幸 長 (花 押) 瀬 戸 山 堀 子 中 乙 上 瀬戸鉛山屋敷留方共 五石二斗五升七合当年ヨリ御年貢被御赦之旨被仰出候條彌有附鉛山之儀無油断掘可申者也 慶長九年三月五日 左 衛 門 佐 (花 押) 鉛 堀 中 定 一鉛山公用之儀頭一人ニ付一ケ月ニ鉛雖為二百五十目相許山日二百目ニ定遣候山さかり人多成候はゞ何時も可申立事 一山へ入候儀田邉過分ニ高入来候得共是亦相許一わり高ニ申付候事 一此二外役義悉相許上ハ堀子共集候様ニ無油断可入精事 右條々堅可 相守此旨聊非分之儀於 在之者此方へ可申来聞届上可行曲事者也如件 元和五年八月廿七日 帯 刀 (花 押) 出 雲 (花 押) 瀬 戸 山 堀 子 中 鉛山仕候ニ付則肴二分口御赦免検問彌山さかり候様出精者也 亥霜月九日 彦 九 郎 ㊞ 水 淡 路 ㊞ 安 帯 刀 ㊞ 田邉之内瀬戸 鉛 山 惣 中 雑賀云。慶長五年関ケ原役の直後、徳川氏ほ浅野幸長を甲斐から移して紀伊に封し、幸長は同年十、十一月の交紀州に入り、長臣日浅野左衛門佐を田邉に派して田邉地方 即ち口熊野を鎭治せしめた。 こゝに掲げた古文書のうち最初のものは、幸長がその封初に鉛山の貢租を定めて与へたもの、当時は瀬戸山と汎称し湯崎方面の山をも瀬戸山と称したのである。 次ぎのは鉛山の屋敷年貢の赦免であるが、己上とあろ前に或は地目面積等の簡條書があつたのではないかと思はれるが今は不明である。 元和五年のものは、元和五年浅野氏安芸に移され徳川氏紀伊に就封した際.徳川氏の執権から与へたもの、浅野氏の例を其まゝ踏襲している。ニ分口赦免も同じく徳川氏からのもので亥とあるは恐らく元和九年のことゝ思はれる。 二分口とは漁獲物の二分を税とLて収納したのをいふ。因みに以上の古文書は編者が未だ見るを得ず、何れも瀬戸区に存する写しによつた。 雑賀叉云。鉛山鉱山に関する古文書は以上のものくらひしかないので、この際、鉛山鉱山はいつ頃始まつたか等につき意見を附託したい。 この鉱山に関する沿革の文献は以上の外は次ぎに抄出する断片的のものしかない。 それらを書くと 一、紀伊続風土記は鉛山村の條に「村名鉛を掘りたるに起る、続日本記に大宝三年五月令二紀伊国阿堤飯高牟婁三郡献銀とあり.当郡にて銀の古く出し地許ならす此地古に顕れし地にして 鉛の出し地なれば銀の出しは此地の事ならん、村の坤の申燈明台の邉に鉛を掘たろ鉱穴多くあり、いつの頃まで掘りしか元和の頃の下文に猶鉛を掘る定書等あれども其事は既に絶たりと見ゆ、今の人家は皆 鉱徒居留りて村落をなしたるより遂に一村となれり」と あり。同記物産の部に「概鉛 古牟婁郡田邉ノ荘鉛山村ヨリ出ストイヒ 伝フ」と記載している。 二、祇園南海の享保十八年鉛山記行の文中に「有金坑数十、聞開鉱百年以鉱脉入海中止、鉱上沙礫顆々皆挾銅鉛、今尚歳出銭若干以充鉛貢」とあり。 菊池西皐の三山記略は寛政六年の記行であるが、鉛山の項中に「南崖石劈為壁者十余丈、壁有坑数處、云是金鉱之舊也、潮来皆没」云々とあり、その頃には舊鉱跡が一つの見物箇所のや うにも扱はれたかと思はれる位である。 三、現在の鉛山鉱山は大正八年に和歌山の原庄組の手により事業を開始したものであるが、現在は鉱脉四つあり、鉱鏡石は閃亜鉛鉱、黄鉄鉱、班銅鉱、黄銅鉱、方鉛鉱で最北にある金龍○の如きは萄坑を追跡すれば延長約一里に及んでゐるといふ。丘陵上には 舊坑が所々に散布し古い錦沖の倍ほ堆積してゐる所もあるのである。 四、湯崎温泉の鉱の湯は鉛山の舊坑から湧出したので鉱の湯の名を得たといふ。 鉱の湯の谷をまぶたに(鉱谷)といふが、これlは鉱の湯から得た名ではなく、所の古老の話によると 同谷の耕地の中には舊坑の跡多く之れを埋めて耕地としているから、もと鉱山であつたか或は試掘したこと明かであり鉱谷の名はそれから来たものと思ふといふ 五、舊藩時代に鉛山村の年貢は鉛を以てするを本則とし、それを銀に代へて納めろ例となつていた。 六、山神社はもと山田彦三神社といつた。薬師堂は温泉に関係ある仏堂として、この山田彦なる神が鉱山と関係はないか。又、鉛山には浄土の来迎寺と眞宗の金徳寺とあり、この 両宗は鉱山従業者の信仰と何か交渉はないかと思はれるが、何れも勧請、草創の時代が知れない。 先づ今の所、以上のやうな資料しか得られぬのである。以上のうち(一)の続記の 阿堤(今の有田郡)飯高(今の日高郡)牟婁(今の東西牟婁郡)三郡をして銀を献ぜしむとあるのを、牟婁郡に属するこの地を以て「鉛の出し地なわば銀の出しは此地の事ならん」 するは、推測に過ぎない。 三に記した現鉛山鉛山の鉱石から見て、果して銀を出したことあるかどうか、尚ほ考へねばならぬものが多いと恩ふ。 続記の記載だけを以て鉛山鉛山が大宝に既にありしとするは危険であらう。しかしこ ゝに掲げた古文書により慶長、元和に尚ほ鉱山の採掘されていたことが知られる。 思ふにその後間もなく鉱坑が海に入つて中止したのであらうか。しか 舊によつて鉛を以て年貢とする本則とし、鉱山の跡が温泉客の遊覧場所の一つとされた観り、以て大正の鉱山再興に至つたと見られる。 兎に角鉛山がいつ頃始つたかは不明であるが、或は室町時代又は安土桃山時代に開始れ、 鉱脉に入って止むなく中止した後、その従業者の幾分は残りて茲に居住し、農業に従ひ傍ら湯治客を泊めたのではあるまいか。 要すもに舊坑に大きなものゝない点から推して、奈良、平安朝に始まつたほ ど長い間採掘したと見られず、鉛を年貢としていた点から見て弘治、永禄、天正の頃採掘していたのでないかと思はれる。 尚ほ識者の教を俟つ。 参考文献 白浜湯崎温泉叢書 歴史文献編 雑賀貞次郎著 昭和8年10月20日発行 白浜町誌本編下巻一 第六章 鉱業 第一節 鉛山鉱山 関連参考 御書祭 千年鑵子(せんねんくわんす) |
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