年 表西暦1700へ

西暦

年号

 

645 大化     大化の改新 熊野国を廃して牟婁の地を加えて一群とし、紀伊国に隷し、牟婁郡と名づける
657 斉明 3 9   有間王子、牟婁の湯を推賞

658

斉明

4

10

18

斉明天皇行幸

 (天智天皇が皇太子(中大兄皇子)の時 、御同列}

      11 11 有間王子藤白坂で殺される
684 文武 13 10 14 土佐その他に大地震津波

685

 

14

4

 

温泉不出

牟婁の湯(湯崎温泉)の湧出一時停止した旨紀伊国司報ずる。

690

持統

4

9

13

持統天皇行幸

 (御同列か、元明天皇即位前のこと)

692   6 5   牟婁の人阿古志海部可瀬麿ら兄弟三戸に一〇の調役、雑徭を免ずる。
701 大宝 1 10 8  文武・持統天皇行幸 (1-10-08武漏温泉着)
703   3 5   阿提(有田)、飯高(日高)、牟漏(牟婁)の三郡銀を献ずる。
745 天平 17 10   牟婁郡牟婁郷の戸主某、「呆十」を貢進する。

754

天平

勝宝

6

正月

 

このころ入唐副使吉備朝臣真備の船、益久島(屋久島)より牟漏崎に漂着する。

765

天平

神護

10

 

牟婁采女で正五位上の熊野直広浜を従四位下に叙する。

769

神護

景雲

3

4

6

散事牟婁采女従四位下熊野直広浜卒す。

973 天禄 4 5 21 円融院・資子内親王乱碁歌合において「白良の浜」の歌見える。「平安朝歌合大成」
1008 寛弘 5 8   このころ紫式部日記に「白良の浜」の歌見える。「紫式部日記」
1040 長久 5 6 斎宮良子内親王具合において「白良の浜」の歌詠まれる。「平安朝歌合大成」
1089 寛治 3 8 23 太皇太后扇合にあいて「白良の浜」の歌詠まれる。「平安朝歌合大成」
12   このころまで紀伊国内ほとんど荘園となる。

1116

永久

4

12

20

藤原仲実、「白良の浜の走り湯」の歌を詠む。

「永久百首」

1201 建仁 10 14 近露和歌会で、源家長、「白良の浜」の歌を詠む。「熊野山御幸記」
1531 享禄 3 11   「安宅一乱記」参照
1531 享禄 4 1   小山太郎、瀬戸綱不知の水軍を討つ。
1558 弘治 4     このころ、鉛山大火のため山神宮焼失と伝う。

1558

1586

        頃、鉛を発見採鉱開始−(町誌本編下巻一)
1600 慶長 5 10   浅野左衛門左、口熊野の領主となる
11 1 浅野幸長の鉛山鉱山貢租定
1601 慶長 6 1 10  左衛門左、瀬戸村の湯銭を定める
9   瀬戸村検地帳を作成。
1604 慶長 9 3 5 浅野左衛門左、鉛山の屋敷などの年貢を免ずる。

1605

慶長

10

 

 

浅野幸長來巡瀬戸浦に漁獲す

(浅野幸長、瀬戸において鹿狩 万代記)

1607

慶長

12     この年、浅野長政瀬戸に遊ぶ
1619 元和 5 7   安藤直次田辺領主となる
8 27 安藤直次、鉛山の貢租を定める
1623 元和 9 11 9 安藤直次、鉛山の漁獲物「二分口」を免除する

12

29

鯨308尾を綱不知湾に獲れたり(ゴンドウ鯨)

1633 寛永 10 4 4 諸国巡見使通る
1638 寛永 15 9   キリシタン制金の高札はじめて建てられる

1643

寛永

20

9

 

初め瀬戸崎に斥候所を置き紀藩与力の士36名をして輪番にに交直せしむ 。(瀬戸崎番所)

1645

正和

2

   

この年、若山より水主米改め役人来る

この年までに、鉛山村、瀬戸村より分村

1649 慶安 2 3   瀬戸村の戸数52軒、人口169人
1650 慶安 3     国主ョ宣はじて瀬戸お成り、南龍公別館建築
1651 慶安 4     瀬戸村通の印判、のろし場定め
1654 承応 3 2   キリシタン制金の高札建て替え
1661 寛文 2   本覚寺本堂再建
5   異国船関係の壁書、瀬戸崎番所に掲示される
    この年、瀬戸村に温泉湧出四ヵ所あり
1662 寛文 2 3 20 南龍公瀬戸御成り
6   南龍公瀬戸御成り
7   鬼界島の者八人漂着する
11   紀州藩に移され周参見組となる
1663 寛文 3 1 25 ョ宣、瀬戸お成り
    このころ、瀬戸村と富田組才野堅田村両村との境界紛争おこる

1664

寛文

4

3

25

ョ宣、瀬戸お成り

4 24 ョ宣、瀬戸お成り
5 3 ョ宣、瀬戸お成り
10   ョ宣、瀬戸お成り
11   若山より古跡改め役人児玉庄左衛門、山中藤九郎来る

1665

寛文

5

1

26

復紀侯(ョ宣)瀬戸浦に遊び時として田辺に巡遊すこれより五六年の間度々来往す

2 16 本藩の三浦長門守瀬戸へ来る
1667 寛文 7 1 18 本藩奉行所役人来り瀬戸鉛山に泊まる
4   江戸よりお国回り役人通る
5 11 江戸より浦回り役人瀬戸に来る
1668 寛文 8 2 4 清渓公瀬戸御成(二代国主光貞)
5 20 南龍公綱代へお越
1669 寛文 9 2   ョ宣、瀬戸お成り
3 28 ョ宣、瀬戸お成り
1670 寛文 10 2 8 清渓公瀬戸御成(二代国主光貞)
3 23 前国主ョ宣、瀬戸お成り
1679 延宝 7 6 18 御城米船、瀬戸沖にて破損
1682 天和 2     この年、鉛山村に灯明台設置
1683 天和 3 7 2 讃州塩飽御城米船綱不知に入津する
10 5 熊野参詣の帰途、和歌浦雲蓋院主僧富田より瀬戸に着く
10   瀬戸網代と江川網代との出入りはじまる
1684 貞享 3 25 寿光院(光貞の側室)湯崎へ来り浴す
1685 貞享 2 3 12 紀州藩士玉川伊左衛門、熊野参詣の途次湯崎へ入浴する
1687 貞享 4 7   金徳寺の寺号が定められ、本尊の安置みとめられる
8 19 異国人大島より陸(大辺路)通る
1690 元禄 3 8 25 三浦長門守、瀬戸へ湯治に来る
1692 元禄 5 11 5 三代国主綱教瀬戸御成

1694

元禄

7

5

25

綱教、湯崎へ御成

10 8 綱教、湯崎へ御成

1697

元禄

10

11

29

夜瀬戸鉛山村火あり延焼50余戸僅に7戸を残す焼死3名牛13頭

1699 元禄 12 2 25 光貞、ョ方とともに瀬戸御成
3 5 直名、瀬戸御成
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