常燈番所(灯明台)

 2004年8月中頃だったと思うが、四人(男二人、女二人)でゴルフをしょうと云う話があり、目的を隠して、迷うことなく白浜ゴルフクラブでゴルフすることを約束した。
 2004年9月1日夜、約46年ぶりのこととて、少し、ゴルフボールを打つイメージトレーニングをした。
 2004年9月2日、不安も自信なく、兎に角、無事に18ホールを終えることで、ゴルフに出かけた。
 何せ、目的は、灯明台の跡探しですから、ゴルフも出来て、灯明台の跡の場所が判明すると全て満足ですから、小雨ぱらつく、一番ホールに立っても、爽快な気分であった。
 その理由は、灯明台跡が、ゴルフ場内にあり、しかも、7番ホール

(白浜ゴルフクラブ、7番ホール。この写真手前が車道)

にありそうだとの情報が以前よりあり、課題としていたことが解決するからであった。又、この灯明台跡の位置が、他の未解決の歴史資料との関係が深いと思っているからです。
 下手も、上手の内、前に行くだけ、でも、本人の意思に関わらず、ゴルフボールは、アチラ、コチラと飛んだり、転がったりした。


(ゴルフボールが下に見えないでしょう。 空振りではありません。トホホ。)

 ホール途中、夏、ウエットスーツ着て、海中への潜りの体力回復が完全でないのか、腰が痛くなってきたが、ただ、目的達成に無我夢中、「打ったゴルフボールの行き先は、ゴルフボール

(ゴルフボールではありません。キノコです。)

に聞いてくれ」と言いながらも、三段からの車道を横切って7番ホールに来た。ここには、昔あった池もあり、大変懐かしかったが、「ここでは、ないか」と云う声で、その場に行って見ると、「ヤマモモの木」

    (7番ホール、車道より見える。)

があって、その下には、幾つかの大きな石があった。
 幾つかの大きな石に取囲まれるように、その真中に「ヤマモモの木」があって、その位置から見渡すと、現在は木々が大きくなって、見えないが、椿方面から番所山方面まで見渡すことが出来る位置にあることが判断できた。
 海からも夜間、灯が見える場所であるのでしょう。
 灯明台は、ほぼ、この辺一帯の何処かにあったことが、想像することができたが、確信するまでには至らなかったので、後日に調査するため写真撮影をした。

 何とか、INもOUTも回って、スコアは内緒、四人でお疲れさん会を開催し、自宅に着くと翌日であった。

 後日の調査結果

 「7番付近か16番ではないか」と言う。

 先ずは、白浜ゴルフクラブの協力で、航空写真を写真撮影させていただいた。

 それから、作成年代は別にして、瀬戸部所有の瀬戸浦絵図(江戸時代)の一部を印刷して航空写真(手前が7番ホール)

と見比べながら場所について 推測した。

 2004年9月8日依頼していた中央公民館の佐々木君から電話があり、「常燈番所(灯明台)について調査した」と言う電話。

 その内容は7番か8番ホールで、大原満先生が過去に現地で調査されていると言う。

 電話で大原満先生に確認すると、「石積みがあって、茶碗の欠片があった」という。

 この場所に、何故、こざわるか。

 その理由は。

 祇園南海の「鉛山紀行」に「 其上燈火楼、南去二里許大陸如盤望之如野、傍有金坑数十、聞開鑛百年以鑛脉入海中止」

三山紀略之一節に「南崖石劈爲壁者十餘丈、壁有坑数處、云是金礦之舊也、潮来皆没。」と記載があります。

 これらの記載から海に没した鉱の場所を想像するのに、灯明台の位置が大切な要素なのです。

 「マブ」と呼ばれる鉛の掘った竪穴が平草原などに沢山あった、これらが、鉛の産出の主であるように思っていたが、上記の記述から、海に入り没した場所が主であったと思われる。

 海に入り没したのは何処なのでしょうか。灯明台のあった場所が、上記の紀行文などを読んで推測する上で、重要な判断材料になりますので、ゴルフ場内を 知ることでした。

 2004年9月11日ゴルフ場の航空写真を持参して、大原先生の自宅を訪ね、航空写真にて灯明台があった場所を教えてもらった。

 灯明台の場所は8番ホールの テーグランドの後である。

(8番ホール。車道よりテーグランドが見える。 Photo/2004-09-11)

 まず、ゴルフ場内に入らずに、場所の確認した。

 一人では、老人危険と心もとないので、紀州博物館の玉田君を連れて、ゴルフ場内に入らずに、千畳敷の車道から藪の中を強行突破した。

 ヤブ蚊が服の上から刺すので、かゆくて、かゆくて、ヤブ蚊と蜘蛛の巣の戦いであったが、跡と思われる場所に行き着いた。

 この写真は、その一部を撮影したものです。

(掘りかえさないで、このままにしておきましょう。  Photo/2004-09-11)

 ここには、烽火台も併設されていたので、当時あった遠見番所(番所山)が見えないかと思い撮影した。

(灯明台付近より番所山     Photo/2004-09-11)

 藪を降りてきたら、やぶ蚊に刺されてカユイのと、全身に溢れる汗、「ナギサビールの茶店」で、玉田君とかゆみ止めの薬を塗るやら、汗を拭くやら、コーヒーを飲むより忙しかった。

 2004年9月13日番所山から灯明台跡の場所が見えるかなと思って、南方熊楠記念館に久しぶりに立寄り、帰り、番所山灯台に向かい井戸の谷から見えたので撮影した。

  (番所山・井戸の谷より、鉛山湾と灯明台方面。  Photo/2004-09-13)

 (赤い矢印をクリック拡大写真が見える。)  

 当時は、烽火が上れば、遠見番所から見え、夜間の灯明台の灯も見えたと思う。

 それでは、全体の航空写真を参照してください。

                (この航空写真は、昭和22年に撮影されたものを用いた。)

 関連
 この灯明台の歴史は、別記していますが、これが南紀白浜の灯台の始まりであることは間違い。
 この灯明台が廃止されて、
 明治の初年頃に瀬戸の倉の鼻の山頂に、鯖魚のための夜炊きができ、
 明治43(1910)年5月四双島にランプで灯をつける。これにより、瀬戸の瀬戸の倉の鼻の山頂のの夜炊きが廃止された。

 昭和27年1月1日燈台が四双島に建設工費約五百万円、時期未定。

 昭和27年11月22日 田辺湾の燈台天神崎と四双島が希望されてい

  るが、四双島が有力視されている。

 昭和27年12月3日 大浜から見えるアポセ礁へ浮標設置と四双島の

  燈台設置について陳情したが燈台は点滅しなものを予定。

 昭和29年8月6日 番所の鼻の無人灯台は、近く着工し十一月に完成

  するはこびとなった。
 昭和30年2月15日番所山灯台開設
 昭和51年12月20日四双島に現在の灯台が開設され、最初の点灯

  がされた。