常燈番所(灯明台) |
2004年8月中頃だったと思うが、四人(男二人、女二人)でゴルフをしょうと云う話があり、目的を隠して、迷うことなく白浜ゴルフクラブでゴルフすることを約束した。
(白浜ゴルフクラブ、7番ホール。この写真手前が車道)
にありそうだとの情報が以前よりあり、課題としていたことが解決するからであった。又、この灯明台跡の位置が、他の未解決の歴史資料との関係が深いと思っているからです。
ホール途中、夏、ウエットスーツ着て、海中への潜りの体力回復が完全でないのか、腰が痛くなってきたが、ただ、目的達成に無我夢中、「打ったゴルフボールの行き先は、ゴルフボール (ゴルフボールではありません。キノコです。)
に聞いてくれ」と言いながらも、三段からの車道を横切って7番ホールに来た。ここには、昔あった池もあり、大変懐かしかったが、「ここでは、ないか」と云う声で、その場に行って見ると、「ヤマモモの木」 (7番ホール、車道より見える。)
があって、その下には、幾つかの大きな石があった。 何とか、INもOUTも回って、スコアは内緒、四人でお疲れさん会を開催し、自宅に着くと翌日であった。 後日の調査結果 「7番付近か16番ではないか」と言う。 先ずは、白浜ゴルフクラブの協力で、航空写真を写真撮影させていただいた。 それから、作成年代は別にして、瀬戸部所有の瀬戸浦絵図(江戸時代)の一部を印刷して航空写真(手前が7番ホール)
と見比べながら場所について 推測した。 2004年9月8日依頼していた中央公民館の佐々木君から電話があり、「常燈番所(灯明台)について調査した」と言う電話。 その内容は7番か8番ホールで、大原満先生が過去に現地で調査されていると言う。 電話で大原満先生に確認すると、「石積みがあって、茶碗の欠片があった」という。 この場所に、何故、こざわるか。 その理由は。 祇園南海の「鉛山紀行」に「 其上燈火楼、南去二里許大陸如盤望之如野、傍有金坑数十、聞開鑛百年以鑛脉入海中止」 と三山紀略之一節に「南崖石劈爲壁者十餘丈、壁有坑数處、云是金礦之舊也、潮来皆没。」と記載があります。 これらの記載から海に没した鉱の場所を想像するのに、灯明台の位置が大切な要素なのです。 「マブ」と呼ばれる鉛の掘った竪穴が平草原などに沢山あった、これらが、鉛の産出の主であるように思っていたが、上記の記述から、海に入り没した場所が主であったと思われる。 海に入り没したのは何処なのでしょうか。灯明台のあった場所が、上記の紀行文などを読んで推測する上で、重要な判断材料になりますので、ゴルフ場内を 知ることでした。 2004年9月11日ゴルフ場の航空写真を持参して、大原先生の自宅を訪ね、航空写真にて灯明台があった場所を教えてもらった。 灯明台の場所は8番ホールの テーグランドの後である。 (8番ホール。車道よりテーグランドが見える。 Photo/2004-09-11)
まず、ゴルフ場内に入らずに、場所の確認した。 一人では、老人危険と心もとないので、紀州博物館の玉田君を連れて、ゴルフ場内に入らずに、千畳敷の車道から藪の中を強行突破した。 ヤブ蚊が服の上から刺すので、かゆくて、かゆくて、ヤブ蚊と蜘蛛の巣の戦いであったが、跡と思われる場所に行き着いた。 この写真は、その一部を撮影したものです。 (掘りかえさないで、このままにしておきましょう。 Photo/2004-09-11)
ここには、烽火台も併設されていたので、当時あった遠見番所(番所山)が見えないかと思い撮影した。 (灯明台付近より番所山 Photo/2004-09-11)
藪を降りてきたら、やぶ蚊に刺されてカユイのと、全身に溢れる汗、「ナギサビールの茶店」で、玉田君とかゆみ止めの薬を塗るやら、汗を拭くやら、コーヒーを飲むより忙しかった。 2004年9月13日番所山から灯明台跡の場所が見えるかなと思って、南方熊楠記念館に久しぶりに立寄り、帰り、番所山灯台に向かい井戸の谷から見えたので撮影した。 (番所山・井戸の谷より、鉛山湾と灯明台方面。 Photo/2004-09-13) (赤い矢印をクリック拡大写真が見える。)
当時は、烽火が上れば、遠見番所から見え、夜間の灯明台の灯も見えたと思う。 それでは、全体の航空写真を参照してください。 (この航空写真は、昭和22年に撮影されたものを用いた。)
関連 昭和27年1月1日燈台が四双島に建設工費約五百万円、時期未定。 昭和27年11月22日 田辺湾の燈台天神崎と四双島が希望されてい るが、四双島が有力視されている。 昭和27年12月3日 大浜から見えるアポセ礁へ浮標設置と四双島の 燈台設置について陳情したが燈台は点滅しないものを予定。 昭和29年8月6日 番所の鼻の無人灯台は、近く着工し十一月に完成
するはこびとなった。 がされた。 |
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