牟婁の湯から湯浦、鉛山、湯崎と云う地名の歴史探検。

全く素案の段階

657年ー有間王子、牟婁の湯を推賞

牟婁の湯、紀ノ温湯、武漏温泉

  この空白の年代は何という地名だのでしょうか。

  瀬戸古事に云う。湯浦でしょうか。

     九世紀の記録なしについて

1558年ーこのころ、鉛山大火のため山神宮焼失と伝う。

1558〜1586年頃、鉛を発見採鉱開始−(町誌本編下巻一)

1600年ー浅野幸長の鉛山鉱山貢租定

1623年ー鯨漁 一本鉛山へ

1661年ーこの年、瀬戸村に温泉湧出四ヵ所あり。

1645年ーこの年までに、鉛山村、瀬戸村より分村

1682年ー 常燈番所は天和2年〜

1684年ー寿光院(光貞の側室)湯崎へ来り浴す

 この湯崎とは鉛山村の崎の湯に来て入浴したと云う意味

 鉛山と湯崎があって、湯崎とは崎の湯の付近ことを湯崎と古い地図などに記載されています。江戸時代の記述に「湯崎に行く」と記載されています。

 「湯崎に行く」とは、鉛山を通って湯の崎(湯崎)の崎の湯の風呂に行くと記載されているのだと理解するまでには、長い月日を要しました。

1697年ー元禄の大火

1707年ー大地震津波 宝永4年10月4日  岩城氏墓陰の文

1733年ー祇園南海の鉛山紀行には

  「 其上燈火楼、南去二里許大陸如盤望之如野、有金坑数十、聞開鑛百年以鑛脉入海中止」

    千畳岩の記載あり。

  この鉱脈が海に没することが、鉛山の地名を変更する起因であると思う。

  赤記した1707年の大地震津波が、上記の鉛を発見採鉱開始してから約150年、ここに云う、「開鑛百年以鑛脉入海中止」とは、この大地震津波ではなかろうかと思う。

     千畳岩の記載あり。

まとめ

湯浦

1600年以前は、湯浦 と呼ばれ、鉛が発見採鉱されて、しばらくして鉛山と呼ばれたに違いないと思う。

鉛山

1600年ー浅野幸長の鉛山鉱山貢租定

1645年ーこの年までに、鉛山村、瀬戸村より分村

1733年ー祇園南海の鉛山紀行には、千畳岩の地名

1782年ー天明2年、瀬戸古事の成立

 瀬戸古事の記載。一、湯浦 但し今鉛山という。

湯崎

1791年ー熊野記行に湯崎、千畳敷の名記載。

1794年ー三山紀略には湯崎と記載

 三山紀略には、下記の記載があります。

  南崖石劈爲壁者十餘丈、壁有坑数處、云是金礦之舊也、潮来皆。

 南崖とは、千畳敷の「本まぶ゜の谷」で、千畳敷の南向きの向かいの崖を言うのではないかと思っています。

1866年ー 常燈番所は慶応2年まで。

1873年ー瀬戸鉛山村

1925年 昭和15年3月1日瀬戸鉛山村から白浜町となる。 関連