旧白浜町の九世紀間の記録なしについて |
町誌 本編下巻一 第一章 第一節 原始・古代 (前文略) その後およそ九世紀の長きにわたって、我が温泉のことが文献記録に出てこないのはすこぶる遺憾である。 それは古代末期の永久四年(1116)の「永久百首」に出ている藤原仲 実の ましららの浜の走湯うらさびて 今は御幸の影もうつらず の詠歌に象徴されているようにおもわれる。思うに熊野詣が盛行するにつれて、湯峰温泉等がクローズアップされ、寄り道に当たるわが温泉のことが忘却の彼方に押しやられてしまったものであろう。 (後文略) 頁4 第二節 中世 中世の旧白浜町については城廊さえ確認できず、(後文略)。 頁5 上記の「思うに熊野詣が盛行するにつれて・・・・」は全く理解に苦しんでいたが、下記の文献(上富田町史を参照して)から理解することができた。 特に下記に抜粋した、 {先に、「当時の文化の最先端であった仏教」と書いたが、当時において、仏教は現在の「文化」の意味にはとどまらない。外からから伝えられる情報が極めて少ない当時の社会にあって、仏教の思想は、当時の社会生活に対して決定的ともいっていい大きな意味を有していた。その中でも、政治中枢として機能しはじめる院政に参画していた高僧らは、恐らく政治思想の分野から社会を動かす存在とな っていたであろう。そのことを、よくおさえておかなければならない。 }と具代的には「大日越」を参照すると、 上記 、藤原仲実の詠歌の意味が理解できる。 又、熊野別当の始めの年代(812)と上記白浜町誌の「旧白浜が記録文献に出てこない・・・。(702年〜1599年)」とも 、ほぼ符号する。 1281年を最後に上皇などの参詣の記録がなくなるが、武士や庶民の熊野参拝が続いた、この地方を一時期支配していた安宅一族と 那智実方院(安宅一族と熊野三山・安宅一族と城)との強い繋がりによる社会支配、戦国時代の混乱の時代が続 いたことも一因と考えられる。 |
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