瀬戸浦絵図(以下、当絵図)の作成年代について

  一、 当絵図には遠見番所が記載されています。寛永20(1643)年9月3日に開所されています。

  二、御殿場は慶安2(1650)年。

  三、当絵図には、三段壁附近に灯明台が記載されています。この灯明台は天和2(1682)年に始まっています。

  四、 瀬戸古事は瀬戸古事を読みやすく解読した本が昭和51年5月に楠本慎平氏が発行されています。

  その解説に「(前文略)一応天明2年(1782)前後に成立したものと推測される。しかし問題点がないわけではない。(後文略)」。と解説されています。

  瀬戸古事には「坂田崎を坂手の事なり」 、坂田、北浦など、瀬戸部所有の地図にない地名が出てきます。また、瀬戸古事には、湯崎七湯外が記載されています。

 一の推測

  このようなことから瀬戸古事より以前のものと思っています。

  もっと詳しくこの地図を探検します。

  五、次に、温泉の記載を見ると下記のような記載があります。

  湯崎の金徳寺の下記記載のように、当絵図にはただ、「テラ」と記載されていることと、鯨船訓練の記載瀬戸古事の鉛山の温泉湧出など考え合わせると天和2(1682)年〜 安永5(1776)年までの間に作成されたと推測します。

  さらに詳しく見ます

 1558年ーこのころ、鉛山大火のため山神宮焼失と伝う。

 1558〜1586年頃、鉛を発見採鉱開始−(町誌本編下巻一)

1581年ー享禄4年、海賊退治之事(「安宅一乱記」)に出てくる地名

      瀬戸、瀬戸崎、瀬戸綱知良津、江津良浜

1661年ー寛文元年 この年、瀬戸村に温泉湧出四ヵ所あり。(万代記)

1645年ー正保2年、此の年までに、鉛山村、瀬戸村より分村

1682年ー 常燈番所は天和2年〜

1687年ー 金徳寺 貞享4年、寺号が定められ、本尊の安置認められる。

1697年ー元禄10年10月29日には金徳寺の寺号が記載あり(元禄の大火)

      人家7軒残る。

1703年ー元禄末・紀南郷導記

     瀬戸には藤九郎と熊野三所神社と鰡漁の記載。本覚寺記載なし。

     鉛山には4湯と薬師堂記載あり、2寺の記載なし

結論1682年〜1703年に作成されたと推測します。

1707年ー宝永4年10月4日宝永地震 M8.4 紀伊半島が震源。死者2万人。

 1733年ー祇園南海の「鉛山紀行」には

       「其上有燈火楼、南去二里許大陸如盤望之如野、傍有金坑数十、 聞開鑛百年以鑛脉入海中止」

 

1769年ー明和6年、この年、来迎寺境内に観音像建立

1771年ー明和8年の願状

       この記載に「先年マブ湯と崎の湯が藩のお召し湯と記載あり」

1776年ー安永5年金徳寺本堂再建と思われる。

 下記括弧は、瀬戸古事が成立するまでに記載されています。

 (近代は磯辺の浜に、浜の湯とて出来たり。
  扱又近き頃崎の湯へ通ふ右の片脇に、新湯といふ湯出来たりとなり。)

1782年ー天明2年、瀬戸古事の成立

1791年ー熊野記行に湯崎、千畳敷の名記載。

1794年ー三山略之記の6湯名(館泉、浜泉、源泉、碕泉、淡泉、礦泉)の記載

 1794年三山紀略之一節に「南崖石劈爲壁者十餘丈、壁有坑数處、

                  云是金礦之舊也、潮来皆没。」

1866年ー 常燈番所は慶応2年まで。

  いかがでしょうか。

  問題があることに気づいた、それは寺号など記載しなかった、とも考えられる。その理由は、

  a.記入する位置が集まっていて、狭いので記入しずらいこと。

  b.湯名・寺号などがなくても利用者には必要がなかったこと。

 c.作図の目的から必要がなかったこと。

など、が、考えられます。

 二の推測

 常燈番所は天和2(1682)年〜

  1782年 天明2年(1782)、瀬戸古事

  1794年までに作成と推測される。

  1794年ー三山略之記の6湯名(館泉、浜泉、源泉、碕泉、淡泉、礦泉)の記載

      湯印の○が二つ増え、これ以降の作成は考えられない。

  1817年 文化10(1839)年に紀伊続風土記成る。湯崎七湯記載あり。

  1857年 安政4年10月、下記のように海岸深浅調査が行われています

 常燈番所は慶応2(1866)年まで。

 三の推測

  島という文字です。文字の成立ちを調査します。

  瀬戸古事は嶋と書いています。

  瀬戸浦古図は山冠に鳥と書いています。

  調査によると鳥冠の山が本字で山冠に鳥は俗字と書いています。

  しばらく、お待ち下さい。

  文字の歴史がわかれば、一と二の推測の内で、ほぼ確定すると思う。


当絵図に出てくる寺と神社

本覚寺    慶安年間1648年から1652年頃現在の場所へ移転

藤九郎神社 慶安2年社寺書上書     1649年

蛭子神社  文久2年12月社寺書上書  1862年 紀伊続風土記

熊野三所神社 鳥居のマークと権現と記載あり

鉛山に「テラ」と二つ記載されているのは、金徳寺と来迎寺と思われる。

金徳寺 貞享4(1687)年、寺号が定められ、本尊の安置認められる。

来迎寺 寛文2(1662)年の過去帳(後に作成)、金徳寺も同じ。

薬師堂 紀伊続風土記

以下は記載がない。

山神社 弘治年間社伝による 1555〜1558年

     文禄年間1592〜1596年再興

       紀伊続風土記

ユガ神社の記載がない。

太刀ヶ谷神社の記載がない。


温泉の記載は、マブの湯と崎の湯しか記載がないが、まる印が三つがあり、その位置から浜の湯、元の湯、屋形の湯と思われる。


参考

1661 寛文元年      この年、瀬戸村に温泉湧出四ヵ所あり。(万代記)

1688-1703 元禄末には屋形の湯、鉱の湯、元の湯、崎の湯 (紀南郷導記)

1779 安永7年2月16日、瀬戸村で大火、47戸焼失。

1801-1803 享和年間に元禄末の上記4つの湯に浜の湯、淡湯 (三山紀略)

1804-1817 文化10(1839)年に紀伊続風土記成る。

1805 文化2年7月23日、伊能忠敬瀬戸鉛山両村測量

1805 文化2年7月24日、伊能忠敬ら鉛山より田辺方面へ

1805 文化2年7月24日、天文方役人坂部貞兵衛、湯崎より来り田辺湾測量

1857 安政4年10月、海岸深浅調査行われる(瀬戸部所有文書)

1866 慶応2年まで灯明台