要害城跡(馬谷城跡)(海抜90メートル)
安宅荘(日置川町)の安宅氏が、1494(明応3)年に家臣吉田春秀に、ここへ城を築かせたという。
これが高瀬の要害城で馬谷(うまんたに)城ともいわれている。
又、下記にも記録があります。
1667(寛文7)年書上によれば、高瀬村の項に次の記述があります。
「要害古城跡山城。在所より辰巳(南東)当り、道法六丁是は、城を知れ申さず候し」又、安宅一乱記には、まず亭禄年間(1520年前後)の馬谷城主として、中岩主膳正及び次男中岩源吾の名があげられ
ています。
熊野水軍史料 安宅一乱記
編者長谷克久 発行所名著出版 発行年昭和51年2月22日
書籍のタイトル
”幻の熊野水軍”安宅一族の事績!!
本書は多くの謎を秘めた中世熊野水軍の一魁師たる安宅氏一族の実像を始めて明らかにする、新発見の海賊衆史料で、同時に中世の一般的思想や風俗、政治、経済、軍事等の諸問題を解明する上でも貴重な研究材料となるものである。
安宅一乱記/安宅由来記/解題/安宅氏系図より構成する。 |
「紀伊続風土記」に「村の東にあり、上段東西十一間(約20m)、南北五間(約9m)下段東西七間(約12.7m)、南北四間(約7.2m)城主詳ならず」と記されています。要害城は三段措築法によると云われています。
要害山城(高瀬)
高瀬の草堂寺東方にある。「城山」が要害山城跡で、要害ケ城ともいう。また(「安宅一乱記」)、谷馬城「椿温泉郷」とも記したのもある。
1494(明応3)年、安宅荘の安宅氏が家臣の吉田春秀に旧生馬村を与えて、当地要害山に城を築かせたという。
安宅氏は、紀伊水道を抑える熊野水軍の一時代を作り上げたことのある豪族で、日置川の安宅に本城を構えていた。その周辺には、数多くの出城や関を設けけ、領地を堅固にしていたが、北の境目では隣接の山本氏と争いが絶えず、富田付近で幾度となく合戦が繰り広げられた。
要害山築城後、市之瀬の龍松山を本城とする山本主膳守は、同年十月、兵をこの要害山城に送った。この時、安宅氏はこの兵を退却させたという。
後世「谷馬(馬谷)城の合戦」(「東富田郷土誌稿」)と呼ばれた戦いである。
城の南側の谷はかって軍馬が飼育されていたともいう。このことから馬谷(うまんたに)と呼ばれている。 |
当時の富田平野に住む人々と強いつながりがあったことが想像されます。
白浜町で中世の山城の原形を最も良く残した貴重な城跡である。
安宅一族の参考文献
注、「紀伊続風土記」の年在
文化の初めに編纂、天保10年に成る
文化(1804〜1817)、天保10年(1839)
2005年3月31日、要害城跡(馬谷城跡)へ |