海に没したマブ(鉛を掘った穴)の場所

 はじめ

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 参考資料

1558年ーこのころ、鉛山大火のため山神宮焼失と伝う。

1558〜1586年頃、鉛を発見採鉱開始−(町誌本編下巻一)

1600年ー浅野幸長の鉛山鉱山貢租定

1661年ーこの年、瀬戸村に温泉湧出四ヵ所あり。

1645年ーこの年までに、鉛山村、瀬戸村より分村

1682年ー 常燈番所は天和2年〜

1697年ー元禄の大火

1707年ー大地震津波 宝永4年10月4日  岩城氏墓陰の文

1733年ー祇園南海の「鉛山紀行」には

       「其上有燈火楼、南去二里許大陸如盤望之如野、傍有金坑数十、

         聞開鑛百年以鑛脉入海中止」

1794年ー三山紀略之一節に「南崖石劈爲壁者十餘丈、壁有坑数處、

                  云是金礦之舊也、潮来皆没。」


 海に没した年代について

 上記の鉛を発見採鉱開始してから約150年、ここに云う、鉛山紀行の「開鑛百年以鑛脉入海中止」と三山紀略之の「云是金礦之舊也、潮来皆没。」は、 赤記した1707年の大地震津波ではなかろうかと思う。

 これらの記載から海に没したマブの場所を想像するのに、燈火楼(灯明台)の位置が大切です。

  この航空写真は昭和22年に撮影された抜粋で場所を記載した。

 千畳敷から灯明台への道について

 昭和11年10月30日白石土地が村との契約により、千畳敷より富田駅に通ずる道路、千畳敷より三段壁に至る区間完成する。

 本礦谷に長堤が築かれたのは、この時で、それまでは、千畳敷から灯明台・三段壁に行くには、本礦(ホンマブ)を下り、登りするか、本礦谷に沿って、平草原方面に登り、それから下って、大きく迂回しなければなりません。

 本礦谷とは、上の写真の千畳敷の文字と灯明台の文字の間が細長く黒くなっている所で、今では、本礦谷に長堤が築かれた道と見えない。

 それでは、鉛山からの道を一番古いと思う瀬戸浦絵図の抜粋で見てみましょう。

 この絵図の作成年代は江戸時代と思う。文字の判読出来るものは、コンピュタ処理した。

 千畳敷や常燈番所に向かって四本の線が記載させています。常燈番所から斜め左上の一番長いのが千畳敷への道と思います。この道の千畳敷から常燈番所への道の記載がないのは、本礦谷 が障害となっていたと思われる。

 本礦谷 や梶原川谷などあり、それどれの道は道同士の交差がなく別々に目的地に向かって記載されているのは、これらの谷が当時としては障害であったと思う。

 このように考えると、苦労して鉛山記行の著者は千畳敷から本礦谷を越し たと思われる。

 この道が連絡された記述が出てくるのは、1791年ー紀南第一勝に「燈龍楼から千畳岩」にと の記載もあります。

 海に没したマブの場所について

 鉛山記行の「其上有燈火楼」は、千畳敷の上に燈火楼跡が有り見えると思います。

 三山紀略には常燈番所の記載がない。

 このように考えると、海に没したマブは千畳敷から南の方向であると考えられる。

 鉛山紀行の南去二里許大陸如盤望之如野、傍有金坑数十」と三山紀略の「南崖石劈爲壁者十餘丈、壁有坑数處」と記載。

 何れも南方向の記載。

 鉛山紀行を私なりに現在文にすると

  其の上に燈火樓有り。
  南に去ること二里ばかり、大丘は盤のごとく、之を望むに野のごとし。
  傍(かたは)らに金杭数十有り。開鉱百年、鉱脈海に入るを以て中止と聞く。
  鉱上の沙礫顆々(砂の小石の一粒、一粒に)、皆銅鉛を挟(含)む。
  今尚を歳(年毎)に銭若干出だしを以て鉛貢に充(あ)つと云う。
 要約すると「千畳敷より野原のような平らな 丘が二里程見る 」でしょうか。

 三山紀略は「千畳敷より南に岩壁あり、高さ約30メートル」でしょう。

 余談

 千畳敷対岸の橋立から大崎までの間に、龍口巌と云われる大きな穴をご存知ですか。

 龍口巌について

 戦後間もなくの資料ですが、千畳敷や三段壁付近を参考にしてください。

 昭和初期には,露天風呂や温泉の大噴水も あった。

 余談はこれまでにして、

 では、千畳敷から南で、何処が海に没したのでしょうか。

 千畳敷の対岸から砂岩帯が続いています。この付近だろうと思っています。

 1707年の大地震までは、千畳敷の南にものすごく大きな砂岩帯が続いていた場所があって、そこで、鉛を掘っていたのでしょう。それが大地震で、海に没したのだと思っています。

 今では、その場所を特定できませんが、谷の名前が非常に気になります。

 本格的に鉛を産出する穴が幾つもあり、大量に鉛を産出していたことをイメージさせる谷の名前であります。言い換えると本格的に鉛を産出する礦(まぶ)のある谷と想像させられる名前である。

 鉛の産出がなくなった年代について

 1733年ー鉛山紀行には「礦上沙礫顆々挟銅鉛、今尚歳出銭若干以充鉛貢云」と記載があり、少しは鉛が産出していた記述である。

 1791年ー紀南第一勝、1794年ー三山紀略 には、鉛産出の記述がなく、湯崎と地名が記載されています。

 参考 地名の歴史

 まとめ

 1558〜1586年頃に鉛が発見され、千畳敷の南から平草原一帯で、鉛を産出していたが、1707年の大地震で、千畳敷から南の鉛を掘る穴が海に陥没してからも、若干の鉛の産出を続けていた、1697年元禄の大火あっても、1733年の鉛山紀行にも記述されているように、少しは産出していたのでしょう。

 1771年ー明和8年瀬戸村の願状の記載に「鉛山之義ハ毎年入湯者多ク入込(湯治客が多くなった)」とあり、鉛産出の記述がなく、1733年から1771年の約44年の間に、鉛 を産出しなくなったと思われる。

 江戸時代の地図に書かれている大筒仕かけ場が鉛山村にあったことから、鉛の産出と遠見番所、常燈番所が出来る大きな原因でもあると思う。

 まだ、疑問があります。それは鉛の運搬方法です。陸路か海路かです。


 最後に

 結論を決めて、無理矢理、まとめまで記述しています。

 海にマブが陥没した千畳敷以南については、諸説を考えことがてきます。

 この陥没については、瀬戸鉛山を知る上で大切なことです。

 俄然引水で一つの石を投じました。皆さんのご意見をお願いします。